「え……えっ!? ちょっと待ってくださいよ!!」
ほとんど悲鳴のように、涼が叫ぶ。
恐怖で瞳孔が収縮した目は、まっすぐに闇路を見ている。
見ざるを得ないのだ。
「誰なんですかあなたは!! 俺、あなたなんか知りませんよ!!」
その言葉に、今度は闇路が怪訝な顔をする。
しげしげと、涼を上から下まで眺め回す。
思わずといったように、アマネが割って入る。
「おい、お前……こいつの息子だと?」
胡乱な目で、涼を振り返り、再びちらと闇路を警戒する。
「違います、こんな人知りません!! 俺、親とかもういませんよ。親戚の人が、俺が就職してすぐくらいに亡くなってるって言ってたし、それらしい人も見舞いに来なかったし」
必死に言葉を紡ぐ涼の剣幕に、アマネはただならぬものを感じ取る。
エヴリーヌと顔を見合せるが。
「……確かにねえ。この子、人間の気配が強いわ。完全な人間ではないかも知れないとは思ったけど、吸血鬼の子供なんて思えないわよ。そういう存在が、こんなに『人間臭い』気配な訳ないわ」
エヴリーヌはいつものように甘い口調で、しかし、事実を告げる情け容赦のなさも匂わせながらはっきり言いきる。
「……そういうことだが、貴様、吸血鬼、なんのつもりでそんな見え透いた嘘を言う? そもそも、貴様のやることなすこと、訳がわからん」
アマネは天狗らしい横柄な視線をじろりと闇路に投げる。
闇路は不快そうにアマネを見返すばかりだ。
「マリー=アンジュを盗むわ、あんな化け物は野に放つわ、しまいに一般人を我が子呼ばわりとは。まさかと思うが、気狂《きぐる》いなのか」
あり得ないことではない。
アマネは知っている。
あまりに長年を生きる人外の中には、歳月そのものにか、あるいはそれに含まれる何かに耐えきれずに、精神が極限まで歪む者がいる。
しかし、闇路は。
「ああ、そういうことになっているのですか。あなた方の中では。なるほど」
喉を鳴らし、肩を震わせて、闇路が嗤う。
ぞっとするような鎧が、かしゃりと鳴る。
「まあ、あなた方にどう思われようとかまわないですがね。とにかく、息子は返していただきますよ」
「寄るな!!」
つかつかと近づいてこようとする闇路の目の前で、アマネは扇を構え。
闇路が猛悪な笑みを見せる。
「無駄ですよ」
「そうかしら?」
応じたのはエヴリーヌ。
からかうように指さすのは、闇路の体。
闇路が、前に進もうとし……
がくん、とバランスを崩しかける。
彼の脚が。
虹色を帯びた水晶に変じて行こうとしている。
「おのれ!!」
しかし、闇路は一番簡単な方法を取ろうとしない。
先ほどのように横ざまに、太刀で薙ぎ払おうとはしないのだ。
本当に、涼を巻き込むことを恐れているのだと知れた時に、アマネは決断する。
「おい、掴まれ!! 手を離すなよ!! ……エヴリーヌ!!」
術を維持しながらも、エヴリーヌはアマネに近付き、肩に手を乗せる。
豪雪のように、あるいは舞い狂う炎のように、真紅の羽毛が、境内を埋め尽くす。
一瞬の乱舞の後、羽毛が全部地面に落ちて開けた視界に、アマネとエヴリーヌ、そして涼の姿がない。
「おやまあ、相変らず逃げ足の速いお嬢さんたちだ」
苦々しく唇を歪め、闇路が毒づく。
二度、同じ手段で出し抜かれたのは癪であるが、それよりもやることがある。
彼は、自分を浸蝕し続けるエヴリーヌの残存魔力を、自分の魔力で押し返そうと意識を足先に集中した。
◇ ◆ ◇
「なるほど。そういう経緯でございましたか」
薄暗く、とんでもなく古びた巨大な寺の本堂のように見える場所で、顔の真ん中に大きなくちばしのある天狗が、ゆったりとうなずく。
絢爛豪華な帝釈網の輝きが、シャンデリアのように浮かび上がる。
差し込む白っぽい山の昼の光。
香の香りが山の香と混じり、遠くで鳥の鳴き声がする。
そこにいるのは、アマネとエヴリーヌ、そして涼。
板敷に座布団を当てて座る。
彼らの前に向き合っている大きな異形の影。
「道了薩埵《どうりょうさった》。こういう訳だ。この人間を、預かってもらいたい」
依頼の体裁を採っているが、事実上命令口調で、アマネが目の前の、「道了薩埵《どうりょうさった》」と呼ばれる天狗に申し渡す。
道了薩埵と言えば、箱根の天狗として有名な存在。
ということは、アマネは風を渡る術で、箱根まで逃げてきたのだ。
背中に、アマネに勝るほどに大きな銀色の翼を持つ、その天狗は、こちらも白銀を削り出したようなくちばしを開く。
「それは、もちろんお安い御用にございますが、姫様《ひいさま》。しかし、この者、人間というには……はて? その吸血鬼の言うことも、一考の余地があるやも知れませぬぞ」
身を乗り出すように覗き込んでくる、巨体の天狗に、涼は思わず後ずさり。
「坊主、お主、本当にその吸血鬼のことを覚えていないのか」
「……全然、覚えてません。というか、俺は人間です」
思わず声を跳ね上げた涼を、道了薩埵はしげしげ覗き込む。
「いわゆる人外との合いの子というのとは違うのだが、純粋な人間というのも、微妙に不自然なような……。この辺を調べてみる価値はあるやも知れませぬ、姫様。まるで自分についての記憶を失ってから吸血鬼に付きまとわれるというのも、裏に何かありそうですぞ」
道了薩埵がアマネに進言すると、彼女は鷹揚にうなずく。
「そのようにしてくれ。お前の見立てなら、間違いはあるまい」
「あたし、あの吸血鬼さんの最後に言ってたことが気になるのよねえ。『あなた方の中では、そうなっているんですね』って。まるで事実は違うって言わんばかりじゃない?」
エヴリーヌが、ほっとしたのか、ついというように口を挟む。
水色の滑らかな手が、頬に添えられる。
「その辺の話もだな。あの吸血鬼を締め上げて吐かせたいところだが、あれはどうにもまずい。しかも、恐らくあちらもこちらに関して、何か勘違いしているとしか思えんぞ。初対面なのにあれだけ殺意を抱かれるというのは、ただ事ではあるまい」
一体、奴は、何を信じ込んでいるのだ。
アマネはいっそ渋い顔で考え込む。
「とにかく……事態は相変らず動き続けているのだ。まず、あの怪物をどうにかせねば、謎云々の前に、世界が滅ぶぞ」