「おおう……これはご無体な……」
礼司が、サッシの外の屋上テラスの様子を目にするや、思わず呟く。
「もはや外部との兼ね合いも考えなくなっていますね。無茶だったかもですが、今日突入して良かったですよ」
紗羅が冷たく眼鏡の奥の目を光らせる。
「ねえ。コイツが取り込んで人造妖怪に作り替えた浮遊霊って何体いるのかな? 城子市にいるような人かたっぱしからだったりしない?」
千恵理が当然の疑問を口にする。
「さ、寒い……!! 何ですかあの穴、あの穴からすっごい冷気が……!!」
誠也は、うねうね蠢く壁の向こう側に視線を走らせ、ぶるっと震える。
「俺たちが手ごわいと見て、本気モードで来やがったな生臭坊主。ちょうどいい、ブッ潰してやる!!」
元喜が月の白銀の翼で、その光景を拭い去ろうとするかのように。
三階建ての廃墟の三階、かつては家族が余暇をゆったり過ごす屋上テラスだったそこは、まさに地獄がこの世に侵蝕してきたかのような場となっている。
何十体いるか知れない、人造妖怪の群れ。
うすら赤い皮膚に、人間と四つ足の動物が半ばしたような奇怪な体形の怪物。
全身に目がある巨大な芋虫のような何か。
車輪のついた荷車のようなものから、爛れた生身の人間の上半身が直接生えているかのような、生き物かすら怪しいそれ。
そんなのが、屋上テラスに群れている。
さながらうねくる壁だ。
いや、そいつらばかりではない。
テラスの手すりに、軟組織のような赤黒いものがべったりへばりついている。
どこからか植物のように伸びているようだ。
それを視線で辿ると、テラスの奥側に辿り着く。
何かある。
大きな穴のようなものが。
奇怪なものしかない屋上テラスの中でも、あれは何だと誰もが背筋を凍らせる禍々しい何か。
「よう辿り着いたの、お若い方々。お待ちしておったぞ」
人造妖怪の壁の向こう、くぐもっているように聞こえるのに妙にはっきり聞き取れる声が響く。
枯れた老人の声だ。
誠也は全身を襲う寒気が更に強まるのを感じる。
あの時、自分の肉体を強奪しようとしたあの声と同じ。
「行くしかありませんね。ここまで来て小細工は無駄です」
紗羅が五鈷杵を構える。
彼女が全員にかけた被甲護身はうっすら輝く帳となって、オカ研と天狗の面々を包んでいる。
幻術は警戒しなくて良くなった。
すると残るは。
「ここに戦力を集結させてたって訳か? 下の階には最低限の見張りしか置いていなくて、もっぱら幻術で翻弄することを考えていたのはこういう訳か」
元喜が大筒を構える。
「行くよ!!」
千恵理が、テラスに続くサッシを引き開ける。
生臭い空気が押し寄せてくる。
日没にはまだ間があるはずなのに、外が薄暗く感じられる。
空がおかしな色に感じられるのは何故だ。
全員の足元に、赤黒い津波が押し寄せる。
それが、いきなり巨大な口となり彼らを飲み込もうと……
「不動明王咒!! ナウマク・サマンダバザラダン・カン!!」
紅蓮の炎が巻き起こる。
炎の竜巻となった聖なる不動明王咒は、瞬時に巨大な口を飲み込み、即座に灰となす。
「この程度の術で私たちをどうこうしようと? 所詮欲得に負けて修業を断念した半端法師の法力なんぞ、たかが知れていますね」
炎の壁の向こうから、仏法の守護神のような威厳の紗羅が姿を現す。
「さあ、打ち合わせ通り!! 行きますよみんな!!」
紗羅の言葉を合図に、一斉にオカ研メンバーたちが散開する。
千恵理が抜刀し、元喜が大きな翼で上空に舞い上がる。
礼司の目くばせを受け、誠也は彼と共に、あえて妖怪の壁の向こう、ちらちら見える双炎坊の視線を受け止める位置に動く。
「はっ!!」
千恵理の気合が一閃。
銀色の尾を引く刃は、水平に打ち振られるや、その剣の軌跡を扇状に拡大させていく。
聖なる太刀の一撃に巻き込まれた妖怪たちは、10体近くまとめて斬り伏せられる。
ずるりと胴体だの首だのがずれ、そのまま地面に崩落する。
ぶちまけられた中身は、聖なる気にさらされたせいか、見る間に蒸発していく。
「おら、おめえらのいるべきところに還れ。この世での出番はこれでしまいだぜ!!」
上空で、元喜が大筒を構える。
いつもの砲弾ではなく、大筒の先端から、無数の細かい気弾がばらまかれたのは次の瞬間。
実在の武器で言うなら戦闘機搭載の機関砲のように、降り注ぐ無数の弾丸が、妖怪たちを粉砕する。
粉々に砕いたクッキーみたいに散らばる妖怪たち。
見る間に、紗羅や礼司、誠也たちと、双炎坊の間の妖怪の壁が消え失せる。
「これは……!!」
だが、その時、紗羅ははっきり見る。
双炎坊の異様な姿の背後に、更に何かある。
肉質の壁というか柱……が、何か大きく膨らんでいるようなもの。
奇怪な形の門にも似ている。
「熊野御堂くん、あれは何だと思う……?」
礼司がことさら平静を装っている声で問いかける。
ますます彼が動転しているのが浮き彫りになる声の震え方だったが。
彼の視線の先で、その異様な門から這い出た生き物の組織というか植物の根というか……がぴくぴく脈打つ。
「ああ、ダメです……」
誠也は我知らず口走る。
「あれに近づいてはいけない……戻って来られなくなる……!!」
それは、確かに機能としては「門」に近いのだろう。
ここと、どこか別の場所を繋ぐもの。
その「別の場所」が、この世とは限らないというだけ。
誠也の鋭敏な霊感には、押し寄せるおぞましい邪気が感じ取れるのだ。
その気配を浴びただけで発狂しなかった自分を褒めてやってもよいのではないかという、それは濃密な「地獄の気配」である。
実際、薄黒い何かおかしなものが、ずるずるとそこから這い出し、戦列に加わろうとしている。
とても、いけないもの。
誠也の普通の高校生の語彙では、そのぐらいにしか言い表せない、おぞましいどこかが、彼らの前に口を開けている。
もし誠也が一人きりだったなら、悲鳴を上げて逃げ出していたはず。
「くっ!! 諸天救勅!! オンキリ・ウンキヤクン!!」
紗羅が、素早く諸天救勅の真言を唱え印を結び、その「地獄の門」を双炎坊ごと封印にかかる。
だが、双炎坊は存在していないはずの顔あたりから、嘲笑を響かせる。
『無駄よ小娘。所詮子供よな、これが大きくなることは一応免れたかも知れぬが、無に帰す修法は修めておるまい? さあ、どうする? まだまだここから呼び出した悪霊は無数に……』
「えいっ」
それは、残念イケメン黒猫礼司部長の軽い掛け声。
だが、それと同時に、奇怪極まる双炎坊が、なぜか手を猫手に丸めて、背後にひっくり返ったのである。
『な……っ!!』
「はっはっはっ、その門があるからって守りがおろそかになってますよおじいさーーーーん!!」
礼司が、双炎坊と同じようなポーズ、手を頭の上で猫手に丸めた姿でニャアニャア笑う。
いや、礼司のポーズを、双炎坊が真似させられているのだ。
「部長、ナイスです!! 奴が集中できないように、ずっと変な猫ポーズ取っててください!! 見た目に気色悪いのはガマンします!!」
紗羅が割かし失礼なことを口にする。
彼女の目の前で起き上がろうとした双炎坊が、まるでコタツで寝そべる猫そのままのポーズで、またこてんと寝転がる。
『なっ、なんじゃこれはーーーー!!』
双炎坊が声ならぬ声で叫ぶ。
その周囲では、千恵理と元喜の手によって人造妖怪があらかた片づけられようとしている。
「なにかって? 僕が猫又なのは調査済ではなかったのかな、お坊さん。猫又って、他人の体の一部を一時的に乗っ取って自在に操る特殊能力があるんですよ?」
礼司が高らかに笑う。
白い歯がこんな時でもきらり。
『おっ、おのれおのれ……ふざけた猫めが……!!』
「行きます、えいっ!!」
今度はまた違う掛け声。
今度は誠也である。
彼の体から放たれた清浄な白い輝きが、籠のように双炎坊を押し包む。
途端に、双炎坊の体がびくりと震える。
のろのろと、まるで今覚めたように頭を振り。
「双炎坊!! 地獄に還るんだ、ここにいてはいけない!!」
誠也は、一語ずつ区切るように、はっきりとそう命じる。
双炎坊は相変わらずのろのろ頭を振る。
まるで、今の今まであったどぎつい人格が、体の外にでも弾き出されてしまったかのように。
『はい、還りま……なにを貴様、小倅、わしに命じるじゃと……!!』
双炎坊は一瞬正気にもどったのか叫び声を浴びせて来たが、すぐに首がぐねっとおかしな方向に曲がる。
礼司が向こうで同じポーズを取っている。
双炎坊は、いわばハッキングされている状態だと、全員が認識している。
礼司に肉体をハッキングされ、誠也に精神をハッキングされている。
どちらか一方であったら抵抗の術もあったかも知れないが、両面から干渉されては退ける術は、すでにない。
頼みの人造妖怪の、最後の一匹が千恵理に斬り伏せられる。
そうだ、これが誠也の力、切り札である。
千恵理の大祖父に指摘された、精神支配の力。
かつては伝説の祖龍が持っていた大いなる力と言われているが。
『アアア……かえり、還る、還りま……いやだ、いやじゃ、あああああああ!!!』
抵抗は、ほんの一瞬である。
双炎坊は、自らが招いたはずの地獄の門に、まるで猫が猫用出入口から外に出るみたいな動きで、飛び込んでしまったのだ。
空気が、変わる。
今まで見えていた不気味なあれこれが、どこにも見えなくなる。
そこにはただ、廃墟の、何年も放置された屋上テラスが、ところどころに雑草の生えたすすけた表面を見せているだけである。
「……やった?」
誠也は自分でも信じられないように、周囲をきょろきょろ見回す。
変わったものなど何もない。
まるで、休日にこっそり肝試しに来た高校生の一団である。
ただの廃墟が、うっそりとたたずんでいるだけ。
「ははははは!! びくとりー!! ゆーうぃん!! まー我々の手にかかれば、こんなもんだよっ!!」
礼司が高々と傾いた陽にVサインを掲げるのを、疲れ果てた部員と臨時部員約一名は、おもいっきり気が抜けた顔で眺めていたのだった。