「筒沢池……何年ぶりかな」
道路を抜けて開けた湖畔で、制服のままの誠弥は、ひんやりした水の香りを含んだそよ風になぶられる。
池、と名前が付いているが、筒沢池はほぼ湖と表現して良い面積を誇る。
背後に山地を背負い、澄んだ水を湛えた、市街地から遠くない割には風光明媚な場所だ。
近い岸辺にはボート小屋、少し向こうに回ればキャンプ場があり、城子市市民の憩いの地として親しまれている……のだが。
「大おじいちゃん、待っていてくれるはずよ。さ、もう少しこっち」
千恵理が、制服姿のまま、誠弥の手を引く。
砂利と砂に覆われたしっとりした湖畔を、キャンプ場とは反対側へ。
すぐに古めかしい石の鳥居が見えて来る。
「あちらの神社が……尾澤さんのおじいさんのお家?」
誠弥は手を引かれるどぎまぎを誤魔化すように、そんな質問を口にする。
千恵理は振り返って軽く首を横に振る。
「正確に言うと違うの。あの神社にあるのは、大おじいちゃんの家の玄関だけ、みたいな。大おじいちゃんの家自体は、湖の底にあるのよ。竜宮城みたいなもん?」
けろけろ千恵理が笑う。
誠弥は思わず目を見開く。
「えっ、水に潜るの!?」
まさか昔話みたいに亀が連れて行ってくれる訳ではあるまい。
自力で潜るのだろうか?
千恵理は再度首を横に振る。
「大おじいちゃんちの玄関から入れば、水になんか潜らなくて大丈夫。さ、行こう」
千恵理は、誠弥の手を引いたまま、コンクリートで固められた参道に入り、一礼して鳥居をくぐる。
誠弥も思わず真似して、千恵理に手を引かれたまま、千恵理の遠い先祖の龍神が祀られているという神社の境内に足を踏み入れる。
「ええっと……」
誠弥は無意識にシャツの下の龍神の牙のペンダントを握る。
何だか心なしか暖かいような気がする。
「ちょっと待ってて」
千恵理は、誠弥の手を一旦離して、磐座(いわくら:神が宿ると信じられる神聖な巨石)であろう、注連縄の巡らされた大きな船みたいな形の岩に近付く。
「大おじいちゃん!! 千恵理よ、お話を聞かせて!! 大道くんも連れて来たわ!!」
無人の境内で声を張り上げる千恵理に、誠弥はきょとんとするばかりだ。
どこに竜宮城の玄関が? と思った矢先。
磐座と千恵理の間の空間が、まるでそこに縦の水面でもあるかのように揺らいで波立つ。
光が洩れ、揺れが収まったあと。
そこに、立派な門扉と、その前に立つ、背の高い、和装の若い男性の姿が見えたのだ。
古典の資料集で見た記憶がある、これは狩衣という服装ではないか。
瑠璃色の絹が鮮やか。
「大おじいちゃーーーん!!」
千恵理がそう叫んで、和装の男性に飛びつく。
到底「おじいちゃん」という呼称から連想されるような老人ではないのだが、言われてみれば確かに妙に落ち着いた、幽遠な雰囲気がある。
色鮮やかな骨董品のように、重厚な年月が纏い付いたが故の見えない防護壁。
「千恵理。よく来た。無事で安心したぞ」
男性が――「筒沢池の龍神様」が、遠い孫娘であろう千恵理の頭を撫で回す。
正直、取り立てて同性愛傾向がある訳ではない誠弥から見ても、どきどきしてしまうような、突出した美貌の人物だ。
目元に色気があって印象深く、眉は涼しく、鼻筋はまっすぐ通って、不思議な情趣を感じさせる凛とした口元。
正直、知っている限りの俳優でも、ここまで美形の人物はいなかったと思う。
おまけに背も高く――190cm近くありそうだ――ゆったりした狩衣の上からでもスタイルの見事さが見て取れる。
ただ、人間でないとははっきりわかる。
誠弥の目には、「龍神様」の頭部に、千恵理の同じ箇所に見えるのと同じような、螺旋を描く銀色の角がそそり立っているのだ。
龍神様がふと顔を上げる。
「誠弥、じゃったな? 孫娘から話は聞いている。災難であったな。そなたにも話はある。中に入れ」
誠弥は、千恵理を傍らに、自分に向けて手招きする龍神様に思わず近付く。
「あっ、あの、牙をお分けいただき、ありがとうございました。あちらがなかったら、今回の妖怪に、僕は食べられていたかも知れません」
ふむ、と龍神様が誠弥を見据える。
「そなたも、もう少し自分の能力に自覚的になればのう。そんなに周囲に怯えずとも良いのじゃが」
誠弥は再度きょとんとする。
どういう意味だろう。
「ま、その話も聞かせてやる。中へ」
龍神様と千恵理に招かれ、誠弥はまるで古い時代の御殿みたいな、立派な門を潜る。
「あ……?」
すぐに、そこは到底そこまでの広さが神社の境内にあったとは思えないくらい、広大な御殿の広間。
豪壮な彫刻の彫り込まれた柱を背景に、上座に畳と座が設えてあり、下座にやや簡素な円座が並べられている。
龍神様は上座、誠弥と千恵理は並んで下座だ。
「さあて。あの因業者の双炎坊(そうえんぼう)のことよ。古巣に戻って来るとは愚かなことをのう」
いつの間にか従者らしき人外の持ってきた茶をすすり、龍神様は嘆息する。
「おじいちゃん。この事件の黒幕は、双炎坊っていうのね? お坊さん? おじいちゃんは知っている奴なの?」
千恵理に矢継ぎ早に質問されると、龍神様は渋い顔でうなずく。
「若い奴は知らんかも知れんのう。お前たちが生まれる十何年も前のことよ。こんな田舎町で、いわゆる怪しげな新興宗教を作り上げて、町ごと乗っ取ろうと画策した生臭坊主がおってな」
千恵理は首をかしげる。
「あたしたちが生まれる十何年も前ってことは、大体30年くらい前のこと? こんな田舎にもカルトを作ろうって奴がいたんだ」
孫娘の言葉に、龍神様はますます渋い表情。
「当時は全国版の新聞に載ったとかで、町中ひっくり返ったような騒ぎよ。外法を身に着け、人を呪い、質の悪い妖怪を作り上げて更に人を襲わせる。誠弥が襲われたというのは、双炎坊めが作った人造妖怪に間違いあるまいて」
誠弥はまじまじと目を見開く。
「あ、あの、その人は昔は捕まらないで逃げて、また戻って来たんでしょうか……?」
新聞に載るくらいのカルトの教祖が、よく30年も逃げられたな、というのが、誠弥の正直な感想であるが。
「いや、奴は、もう生きてはおらぬ。人間としてはな」
誠弥の背筋がぞわぞわと。
思わず千恵理と顔を見合わせる。
「人間としては生きてない……ってどういうことおじいちゃん」
千恵理がたまりかねたように尋ねる。
龍神様が忌々し気に唸る。
「奴はな、30年前、警察に追い詰められた時に自殺して果てているのよ。だが、奴くらいの外法師となると、人間としての体が滅びても、転生法を使って、妖怪として甦ってくることができる。こうなるとな、人間としての軛からは完全に解き放たれる訳じゃ」
誠弥は恐怖に目を見開く。
こんな話はエンタメの中にしかないと思っていたのに。
自分は、妖怪に転生した「元人間」に目を付けられていたのか。
「自分で人間をやめて怪物になった奴……いいじゃないの、相手にとって不足なしだわ!! 普通の人間と違って切り刻んでも問題ないしね!!」
千恵理がにやりと笑う。
龍神様は孫娘にうなずいてやると、誠弥にふと向き直る。
「誠弥。今回の事件は、そなたの本来の力が必要になる。もう、ただの霊感小僧でいることはできん。そなたも千恵理も、それ以外の周囲の者も危険じゃからの」
誠弥は、まじまじと龍神様の目を見詰める。
深い秘密を沈めた水のような瞳に、吸い込まれそうだ。
「そなたが厄介な霊感と思っているもの。それはただ単なる『霊感』ではない。それの真実の力は……」
そうして、誠弥は、自分の本来の能力を自覚したのだった。