10 災いは広がる

「これ……おかしくないですか、冴祥さん……?」

 

 百合子が、鵜殿だったはずのものに近づく。

 ぼんやりした街灯の光の輪の中で、それは急激な化学反応でも起こしているかのようだ。

 即ち、空気中の何かと結合しているかのように、見る間に黒いぼろぼろの粒のようなものに変化し、そのまま小さくなって消えて行こうとしている。

 鵜殿の肉体だった部分のみなならず、太刀も同様だ。

 

「そうですね」

 

 冴祥は、すでに分かっていたかのように、じっとその黒い残骸を見据えている。

 切れ長の深い陰影を宿した瞳が、何かを受け取ったようだ。

 角に掲げられた鏡と、身体の周囲を取り巻く鏡状の空間が互いに囁き合うように光を映す。

 

「少なくとも、こいつは『本物の』鵜殿ではないですね。術法で作り上げられた、精巧なニセモノですよ。鵜殿のちょっと大まかなコピーみたいなもんです」

 

 百合子は、傾空を両手に、今しも周囲の暗がりから、一番出てきてほしくない奴が出てくるのを警戒でもするように。

 恐ろしくても、何かを覚悟し、対峙しようとする意志が全身に漲る。

 

「本物は別の場所にいるってことですか……?」

 

 冴祥はうなずく。

 

「そうなりますね。鵜殿らしき何者かがいたという話が複数から流れて来たので、多分こんなことだと思いましたが」

 

 百合子は、公園の木立の向こう、灯火の連なりの向こうに視線を届かせようとあうるかのように。

 

「……真砂さんと天名さんに合流しないと……あっちに本物の鵜殿が……」

 

「ええ。行きましょうか」

 

 冴祥は、何もない空間に手を伸ばす。

 光る球体が二つ、闇に咲くように出現する。

と、連星のようにくるくる回り出す。

 

「さ、こちらに」

 

 冴祥が百合子を手招きする。

 

「二は、こちらと、彼岸……対象と、距離……」

 

 冴祥が呟いた途端。

 彼と傍に近寄った百合子の体が、ふっと消える。

 あの球体も、いつの間にかなくなっていたのだ。

 

 

◇ ◆ ◇

 

「甘いわ!!」

 

 夜空に浮いた真紅の天狗・天名が、扇を打ち振る。

 

 巨大な衝撃波が、鵜殿を吹き飛ばすかに見える。

 

 が、地面に足を踏ん張った鵜殿は、何もしない。

 表情に余裕があるように見え……

 

 反撃は一瞬である。

 天名の放った衝撃波を、いきなり湧き上がった渦巻く刀の集合体が受け止める。

 いや、それだけではない。

 輝く魚の群れのようなその銀の奔流は、海から湧き上がる竜巻よろしく噴き上がり、天名に突っ込む。

 

「天名!?」

 

 近い空中で、彼女もぎりぎり刀の奔流を避けた真砂が悲鳴を上げる。

 銀の奔流の通り過ぎた空中には、何もない。

 

 いや。

 

「天名……」

 

 真砂が唇をわななかせる。

 ひらひらと降って来たのは、ぼろぼろになった風切り羽と……血を吸った、あの巫女装束の切れ端。

 

「あーあ、一人になっちゃったねえ」

 

 鵜殿が悠然と立っているのは、かつては店舗が存在したのであろう空地だ。

 大通りの一本入ったところに面している。

 砂利が敷き詰められ、あちこちに雑草が顔をのぞかせる。

 すぐ側に、人の死骸が何人分か転がっている。

 鵜殿がここで暴れたのだろう。

 

「だから言ったじゃない。あのお姉さんが偶然手に入れた力が、一回くらい僕に通じたからって、同じような幸運は何回もないよって。これが、僕とあなた方の実力差だよ。神器って凄いよね!!」

 

 伝説の忍者みたいな格好の鵜殿が、にやりと嗤う。

 

「ふむ。ここで暴れたのも、私たちをおびき寄せるため、か」

 

 雲の衣をたなびかせながら、真砂は静かに確認する。

 白瑪瑙のような肌は顔色を変える機能を持たないが、もし彼女の肌が人間のそれであったら、真っ青になっていたであろう声の響き。

 空の風に、雲を流して浮かぶ彼女は、神話的な幻のようだが、しかし、確実に命は縮まりゆく状況である。

 

「わざわざあんな原始的なことしなくてもさあ。ほら」

 

 鵜殿が太刀を夜空に突き上げる。

 すると、暗く星と半月の浮く空の一角が、まるで超新星の爆発よろしく輝く。

 

「おい……ッ!!」

 

 真砂が叫ぶ。

 幻の太刀の洪水は、今や空から降り注ぐ流星雨である。

 半径数km、すなわちこの刻窟市の中心街全域に渡り、破滅の凶刃が降り注いだのだ。

 

 しかし。

 

「行け!!」

 

 真砂を包み守る雲が輝く。

 それが広がったのは一瞬である。

 夜だというのに、朝陽に照らされたような金色の雲が、街全体の上空に一瞬にして広がる。

 降り注ぐ凶刃は、その雲に受け止められ包み込まれ、いつの間にか溶けた氷のように消え去ったのだ。

 もう大半の住人が眠りに就こうという地方都市は、たった今通り過ぎて行こうとした死に気付くことなく、穏やかに輝いている。

 

「へえ」

 

 流石の鵜殿が目を丸くしている。

 真砂はにやりと笑う。

 

「大人を舐めるんじゃないぞ坊や」

 

 真砂が言うなり、鵜殿の全身に、彼の足元から湧き上がった雲が、無数の腕のように絡みつく。

 ワイヤーで雁字搦めにするかのように、雲で固められた鵜殿は、とんでもなく大きな、例のマシュマロのキャラクターのような見た目になって、そのまま空に昇っていく。

 

「さあ、これで」

 

 真砂が、上空に、このままでは大気圏すら超えていきそうな勢いの雲の人形を見上げて、大きくため息をつく。

 

「天名。仇は、取った、けど……」

 

 真砂は言葉が詰まったように、激しく咳き込む。

 

「ふむ、上出来だ」

 

 その声が、真砂の耳に聞こえたかどうか。

 空の一角が、まるで太陽のように輝く。

 まさに真夏に太陽を仰いだ時のように、灼け付く激しい輝きが、下から上へ、雲の人形を飲み込んで蒸発させる。

 

「へえ? まあ、そんなことだと思っていたけどね?」

 

 真砂が、舞い降りて来た真紅の翼の天狗を見て、ニヤリと皮肉に微笑む。

 袖がぼろぼろになっているのは、ご愛敬であろうか。

 

「私が風を渡れるのを、奴が知らなかったのが幸いだったな。しかし」

 

 天名が、真砂を見やる。

 呆れ顔の信頼がそこにはある。

 

「まだ話は終わらないようだな?」

 

 真砂も天名も、足下を見下ろす。

 百合子と冴祥が、くるくる回転する二個の球体に囲まれるようにして姿を現したのだ。

 

「真砂さあーーーーん!! 天名さあーーーーーん!!!」

 

 百合子が呼びかける。

 

「さっき、凄いのが見えましたけど、あれ……!!」

 

「鵜殿は、仕留めたようですね? 少なくともここのは」

 

 冴祥が舞い降りて来た二人に微笑みかける。

 

「私たちも仕留めましたよ……鵜殿を、ね?」

 

 天名が舌打ちする。

 

「奴め。分身の術なんぞを心得ていたとは。まるで鵜殿が何人もいるような話だと思っていたら、本当に何人もいたという訳だ」

 

 真砂が雲を腕に纏い付かせながら、首を傾げる。

 

「……暁烏くんはどうしたかな? 鵜殿と関係があるかわからない何者かというのはどうなったんだ?」

 

 最初は鵜殿の手の物の可能性も考え、偵察だけでもと暁烏に単独で行かせた、のだが。

 

「それはまだ、連絡が……」

 

 迎えに行きますか、と冴祥が呟いた途端。

 冴祥の袖から、電子音が鳴り響く。

 彼は、失礼と口にして、電話に出る。

 

「……暁烏……? へえ?」

 

 失笑したような冴祥の表情に、百合子も、真砂も天名も、顔を見合わせる。

 

「あの……冴祥さん?」

 

 百合子が恐る恐る。

 

「いや、妙な話になって来ましたね。鵜殿より厄介かも知れませんよ」

 

 冴祥が皮肉に笑うと、三人は、奇妙な表情を浮かべたのだった。