希亜世羅は、怪物化した冴の頭を膝に乗せ、地面に座り込んでいた。
「にゃあん。我が主、どうしますかにゃあ、コレ」
微かな寝息を立てる冴を、伽々羅がぽよぽよした前肢でつつく。
希亜世羅は、半ばを禍々しい仮面じみた羽毛で覆われた冴の顔に、ほっそりっした手をそっと当てていた。
「このアホにーちゃん、保護してやる訳にもいきませんにゃ。あの骨蝕とかいう奴の神使に作り替えられているのですから、こいつを側に置いておいたら、あいつにこっちの動向が筒抜けですにゃあ」
「そうだね」
希亜世羅は、それでも変わらない調子で、静かに冴の頭を撫で続ける。愛しそうな仕草だった。金剛石のような目くるめく光をたたえる眼差しが、苦しそうに眠る冴の精悍な顔に注がれている。
「……我が主、あるいはお辛いかと思いますがにゃ……」
戸惑いがちに言い出した伽々羅に、希亜世羅はそっと首を横に振った。
「それ以外にも方法はあるよ」
冴を騙し、自らの眷属に作り替えた骨蝕は、今ここにはいない。
消滅した訳ではない。
ただ単に、一時的にこの世界と隔絶された異空間に隔離しただけだ。この宇宙、この時空及び冴という分身とリンクが存在している以上、この世界での時が経てば、戻ってきてしまう。
この「時空の牢獄」は、切れっぱしになっても残された邪神・希亜世羅の本来の力の片鱗であるが、元の十全な存在であった頃と違って、そうあてにできる能力ではない。
「あの骨蝕って奴とのリンクが、切れればいいんだよね?」
あの、狂犬病の犬のように凶暴な様相だった、冴の狂いっぷりを、希亜世羅は思い返す。さらさらと、冴の顔を覆う羽毛に手を滑らせる。ぽうっと、彼女の周囲の幾何学文様の光の帳が明滅した。
「そうですが、神使にされたからには、霊魂体レベルで骨蝕とその方は結合してしまっていますにゃん」
にゃあ、と伽々羅が鳴く。
「じゃ、骨蝕の神使でなくすればいいんだよねぇ?」
ふっと、希亜世羅は微笑んだ。すでに何もかもうまくいった時のような笑み。
「……まさか」
伽々羅がはっとする。
「……後で怒られるとは思う。これはこれで、設楽くんの意思とは違うって言われたらそれまで。でも、私は今できることで、設楽くんを助けたい」
すでに何かを決断した口調。
「……希亜世羅様の、神使に、なさいますのかにゃ?」
伽々羅の問いに、希亜世羅は頷く。
「それしかない。そうやって強引に骨蝕に対する隷属化を解除しないと……」
一拍、希亜世羅は置いた。
「……設楽くんは、元の設楽くんに戻れない」
神使化によって、霊子干渉によりその者の魂魄体にまで影響を与える結果、冴は人格レベルで変容させられた。具体的には、死ぬまで闘わされる闘犬のように、ひたすらに目の前の敵を攻撃するだけの存在になり果てたのだ。あの、古武士のように自己を厳しく律する誇り高い戦士は存在の奥底に押し込められている。解放するには、閉ざしている鍵を開き、二度と同じことにならないような措置を施すしかない。
「設楽くん」
その少年の頭を膝に乗せたまま、希亜世羅はそっと呼びかけた。
希亜世羅の肉体を覆う光の紋様が、冴に流れ込むように伝わっていく。
その光が何かを追い出すかのように、冴の変容した肉体から滲み出た赤黒い輝きが、空中に散っていく。ぼろぼろと、追い出された何かが崩れる。
冴の前身が、シーツか何かでくるまれるように、光で覆われる。
その全身の子細が見えなくなった。
ただ、肉体から突出していた翼が姿を変えていくのが、ぼんやりと見て取れる。
それは、希亜世羅を通じて流れ込む異なる宇宙の力だった。
この世界の住人が、認識できる宇宙の外。
邪神と呼ばれた希亜世羅が率いる、夢子《むし》と魔子《まし》が存在の根幹にある世界。観測ではなく思念することが、存在の在り方を決める、その世界の扉が、冴にも開かれた。
その力が注ぎ込まれ、冴は異なる宇宙の力を得る支配的霊体へと変容していく。
金属を削り出したかのような翼が、背中を覆った。
全身の皮膚を、小さな鏡にも似た大きな鱗じみたものがくまなく覆う。肉体の要所に、甲殻が形成された。
それは龍と人が半ばしたような生き物だった。
全身鎧にも似た鱗と甲殻に覆われ、手足の先端には武器にも思える突起が備えられている。
翼の下から、甲殻を連ねたような鞭状の器官が伸びて色鮮やかに輝いた。
全身に染み込んだ骨蝕の「色」が追い出された時、そこにいたのは魔神というべき禍々しい美を備えた生き物だった。
「……冴、くん?」
膝に輝く鋼色の頭を乗せたまま、希亜世羅は、自らの神使にそっと呼びかけた。
少年は、自分が何になったのかも分からないまま、昏々と眠り続けている。
「……骨蝕とのリンクは完全に切れましたにゃあ。さて、しかし……」
あの宇宙の生き物の姿を取ったこのにーちゃんを、連れ歩く訳にも、と伽々羅は口にしかけた。
「……『虚空の繭』に連れて行こう」
希亜世羅のその言葉に、伽々羅の尻尾が膨らんだ。
「にゃ!? いきなり本拠に!? それは……」
「色々危ないかも知れない。でも、設楽くんを保護するには、それが最善だと思う。それにね……」
希亜世羅は、「妙羽」の表情ではにかむように微笑んだ。
「……私のこと、ちゃんと説明したい。私が何者で、どういう存在かを教えたら、確実に嫌われそうだけど、嘘つきたくないんだ……」
「……主」
重症ですにゃあ、と、伽々羅は溜息をつく。
「行こう」
ほっそりした優雅な腕を、冴と伽々羅に伸ばし、希亜世羅はそう呼びかけた。