「はぁ……嵐みてえなヤツだな……」
ドア前から人の気配が消えたことを感じ取った冴は、大きく溜息を洩らして、どさりとベッドの上に仰向けになった。
「前向きだよねえ。上手くいってくれるといいんだけど」
つうか、いかせるけどね? と笑い声を立てる希亜世羅は、隣のベッドにころりと転がり、冴の方に顔を向けていた。
「おい。まさかほんとにアイツの嫁……ってか婿……ってかに」
「まさかあ。そういう意味でなくて、彼女が事業相続できるように、巡礼成功させるって意味だよ。いい子だけど、私はあの子のお嫁さんかお婿さんにはなってあげられないなあ」
今の今までイルシャーに押しかけられ、しなだれかかられていた希亜世羅は、何とか彼の者の誘惑をやんわり退けていた。
結局、彼の者のお付き二人が本人を引きはがし、自室に連れ帰ったのがたった今。
無論、女神一行の面々も何とかイルシャーをなだめすかし、無理にもお付きに預けて、自分たちも希亜世羅と冴の部屋から出た。
ひたすらに楽し気に誘惑されまくり、冴はもちろん、希亜世羅も疲れたように見えたのだが。
「……あのさ」
何だか妙に難しい顔で、冴は寝そべったまま、顔を希亜世羅に向けた。
窓から差し込む、下層の夜明けの光の中で、彼の逞しい全身を覆う鏡のような鱗が妖しいと言えるような光を跳ね返した。
反対側には、不思議な幾何学文様の光の帳を投げかける希亜世羅。彼女から生み出されたあらゆるものが彼女に仕えていることを示す、その光景。
投げ出された冴の腕も、その光の環に覆われている。
「……何だか、お前見てるとさ……イルシャーに言い寄られてまんざらでもねえみてえに見えるんだが……そうなのか?」
一瞬だけ間を置き、思い切ったように冴は尋ねた。
平静な調子で尋ねようと決めた、事実確認だけだと自分に言い聞かせていたのに、明らかに声が尖る。どう聞いても拗ねてるみたいだ。
正直、世間でよく見る「アイツと何で楽しそうに話してるんだよ。お前は俺と付き合ってるんだろ。他の男に色目使ってんじゃねえ」という例のアレとは言い切れない。
何せ、イルシャーに口説かれているという立場は、自分も同じなのだ。
高校に上がったばかり、家業の継承に力を入れていて、経験豊富とは言い難い思春期少年・冴にとっては、あまりに太刀打ちしがたい難題だった。希亜世羅だけ、もしくは自分だけが色目を使われているなら、イルシャーと希亜世羅にビシリと警告すればいいが、こういう場合はどうすればいいのだろう。全くもって、相応しい対応というものが思い浮かばない。頭が混乱して爆発しそうだ。
「……イルシャーはいい子だけど、そういうのじゃないよ」
するりとベッドから起き上がった希亜世羅が、隣の冴のベッドに上がり込んだ。
ふうわりと風で押される花びらのような軽やかな動きで、仰向けに横たわった冴の上に自身も横たわる。目くるめく光の帳が二人を包み、希亜世羅の目が真上から冴の目を覗き込む。
虹色の目と金色の目。
物理的な架け橋があるように、互いの魔力が視線に乗って交流し、混じり合う。
訳もなく圧倒的な安堵感に、冴は妙に柔らかい溜息をついた。
「ん……なんだよ……」
自分の心臓の音を意識しながら、冴は問うでもなくそんなことを口にした。
触れたところから伝わる体温と感触。
希亜世羅は冴の中に不安を見て取った。
更にその裏に自分への想いを見て取った。
故に混乱している、まだ若すぎる魂を見て取った。
これほどの距離で密着して、無造作に目を覗き込んでいるなら、特に術の類を使わなくても、想いは隠しようがない。
彼の不安を取り除かねば、疲弊しきってしまう。
心安らかにしてあげられなくて、何の神だろう。
「ねえ。冴くん。私ね、冴くんのこと好きだよ」
思えば、はっきり面と向かって告げたことのなかったかも知れない想いを、希亜世羅は、真正面から目を見てはっきり告げた。
「だいすき。あいしてる」
ぎゅっと抱き着いてから、そっとキスを落とすと、冴が希亜世羅の背中に手を回した。
目に見えて、冴は落ち着いた。
「……他の人たちだって、好きな人はいるよ。でも、そういう人たちに対する『好き』と、冴くんに対する『好き』は別なの。冴くんに対する『好き』は……この人となら、どうなってもいいかなっていう、ちょっと怖い『好き』で……みんなに対する『好き』は、私がどうにかしてあげなくちゃっていう、『好き』なの」
希亜世羅は軽いキスを再度落とした。
「どうなってもいい、なんて言うな。気持ちは嬉しいけどよ、それだけ思ってくれるなら、なおさらしっかりしてなきゃ駄目だろ? 元締めの神様がそんなことじゃ、ここの宇宙の連中が気の毒だぜ」
冴は、薄物のような翅の隙間から、希亜世羅の背中に手を回してゆっくり撫で回した。声音は明らかに落ち着いていた。拗ねた子供から、信念を手に大人へと歩を進める堂々たる少年が戻ってくる。
「うん。分かってる……ありがと。冴くんのためにも、しっかりしないといけないのにね……」
希亜世羅がぎゅうっと体を押し付ける。
「……いや、俺も悪かった。何が何だか分からなくて平静を欠いていた。あんなくらいでぎょっとしてるようじゃ、お前を守る役の神使としてはまずいな……」
ふう、と再度の溜息。
自分の中に自分が戻って来て、冴はいつものように冷静に自らを見渡せるようになった。
「色々と、事前説明できてから、ゆっくり案内してあげられれば良かったんだけどね……」
「おいおい、観光じゃねーだろ、これ? ま、イルシャーを第二階層の遺跡まで送って証拠を手に入れたら、術で最上層に送り返せばいいんだろ。んで、俺らはその後、ゆっくり最下層へ、だよな。まあ、そう難しいことでもねえな」
邪魔する奴はいねえし。
冴はしばらくぶりに予定を整理し、軽く頭の中でシミュレーションした。魔照獣の強さがあのくらいだとするなら、あまり難しい話ではない。交通手段が限られるだけに、少し時間はかかるだろうが、女神一行五人揃えば困難と言えるようなことはありそうもない。
あの、何の悪気もないクレトフォライ人の若者にひっかき回されて、自分の当然把握しておくべき事柄がおざなりになっていたのは、自分の修行不足故だと冷静に点検・反省する。
同時に、希亜世羅がはっきり自分への愛を告げてくれたことで、こんなにも自分は落ち着いていられるのかと悟って、何だか世間が愛だ恋だと騒ぐのも故有ることだなと認識を改めた。
同時に。
「なあ。希亜世羅。俺もな、お前のこと大好きだぜ」
ちゃんと告げてなかった。
相手にばっか言わせっぱなしじゃ、ただのヘタレだよな。
そんな風な想いがよぎり、冴はそんな風に告げた。
「最初は色々あったけどさ。俺、お前に会えて良かったよ。なんつうか、大分了見が広くなったっていうか」
かつての自分も、並の人間が手出しもできない闇の中を自在に動く、一種の超人だという自覚はあった。
だが、こうして神使に生まれ変わり、他の宇宙に飛ぶなどという古典文学のような経験をしてみると、かつて自分の認識範囲は思っていたほど広くないと確認する。
希亜世羅も、ある意味冴と同じだった。
彼に会えて、本質的に孤独な女神はようやく自分と向かい合わせになる「他者」を見出した。
彼を見ていると、思いもかけなかったことを知る。
彼は鏡だ。
魔法の鏡だ。
彼に向かい合うことによって、希亜世羅はようやく本当の「外の世界」を見ているのかも知れない。
彼ともっと話したい。
彼を通じて、かつては「よそのおもちゃ」でしかなかったあの宇宙のことを知りたいし、それを通じて結局、彼自身が知りたいのだ。
どうしてだろう。
客観的に見れば、彼はあまたある生命の中の一つに過ぎないのに、彼こそが全世界と思えるのは。
あの、「虚空の繭」で私が見たものは……
「ねえ」
希亜世羅は、冴に囁いた。
「出発するまで時間……あるよね」
ぎゅっとしがみつくと、彼の腕が強く自分の体を引き寄せた。