鈍い音が轟く。
璃南の華奢な肩を壁に押し付けていた極太の魔物の腕が、半ばから千切れて落ちる。
血の雨が、トイレの生成り色の壁と床に降り注ぐ。
こざっぱりと清潔を意識した色彩とささやかな調度が、重苦しい青黒さに染まる。
絶叫してのけぞる怪物の右腕の肘から先がなくなっている。
いや、床に落下しているのだ。
洗剤と消臭剤の匂いを、生臭いような油臭いような異臭が圧する。
なくなった腕を振り回し、叫び続ける怪物の咆哮は凄まじい騒音のはずであるが、何故かトイレの外の居酒屋内部で騒ぎが起きる様子がない。
何かが、この空間を外部から遮断している。
「なんだお前。デカイだけだね」
不意に、女の声が響く。
そこにいたのは、村雲璃南、のはずである。
いや、確かにそこには化物になった男と璃南以外にいなかったはずなのだ。
だが、その姿。
露出の多いきわどい衣装から覗く肌はあでやかなライラック色。
額の生え際辺りから、鬼火のような妖美な青緑の輝きの鉱物質の角がそそり立っている。
手足の先は藍色と金色の毛皮に覆われた、ネコ科の猛獣のそれに似ている。
腰の後ろから、うねる鱗に覆われた長いものがゆらゆらと……
蛇だ。
牙を剥き出した大蛇が、その妖しき美女の肉体から生えているのだ。
とりわけ目を引くのは、その豊満な肉体の周囲を取り巻く、鉱物質の何かでできたナイフ状のものである。
惑星を取り巻く衛星のように、その女妖の周囲をぐるぐる旋回している。
何より、月白の髪の毛を王冠のように戴いた、その風貌。
より妖艶さが増して見えるが……
顔立ちは、まぎれもなく、あの娘。
村雲璃南の顔だ。
「あなた、元々は人間だったね? 気配でわかる」
正体を現わしたというべきか、璃南はその牛の化物に近付く。
ついでに化け物の血で汚れた旋回するナイフを一振りして血を拭う。
「何でこんな姿に? こんなフツーの合コンなんか企んだのは何故なんだ? 何が目的?」
璃南の尋問にかぶせるように、牛の怪物が吼える。
その口から、青黒い炎が、まるで土石流のように噴出する。
一瞬で、居酒屋のトイレの中は炎で埋まり、一瞬それが外にも噴き出すかに思える。
が、一瞬激しい光がほとばしっただけで、炎は一向に爆発する気配がない。
そこには。
「いい? あんたは、私の奴隷だ。何一つ、私に逆らうことは許さない」
人の姿だった時のような、気だるげに見えるほど穏やかな眼差しではなく、いかにも人外の姿に相応しい、冷酷で刃物のようにぎらついた視線で抑え込む、璃南の姿がある。
牛の魔物はへたりこみ、そこから魅入られたように動けない。
無数の昆虫じみた目が璃南に釘付けだ。
右腕からは血が流れ続けているが、それも失念した様子である。
「あんたは、なんでその姿になったの? 誰にそうされた?」
怪物がわなわなと、牛そっくりの口をわななかせる。
『シサイ……司祭、に……』
現代では耳慣れないその言葉に、璃南は眉をひそめる。
「司祭? 誰のことだ、その正確な名前は?」
更に鋭く問うと、牛はまた口をうごめかせる。
『オノデ……ラ……』
その名前が、出た瞬間。
牛の分厚い胴体を、何かが貫く。
ぎくりとした璃南が目を凝らすと、血と肉片まみれの小動物が牛の腹を食い破っているところである。
――あの、小型の餓鬼だ。
一匹、二匹、三匹。
いつの間にか多数の餓鬼が、牛の胴体からわらわら湧いている。
牛はとっくに絶命したらしく、がくりと頭が落ち、そのままドライアイスよろしく溶けていく。
「この!!」
璃南はレーザーの視線を飛ばして餓鬼を消し飛ばすが後の祭り。
残りの餓鬼が消え、居酒屋のトイレは元の静けさを取り戻す。
何がどうなっているのか、あれだけ流れた血の痕もない。
平穏な日常的空間である。
「……ふう。しくじったな」
璃南は大して悔しそうでもなく呟き、一瞬でちょっと風変わりな美人女子大生の姿に戻る。
トイレの前の廊下に首を突き出し、誰もいないことを確認した後、速足で自分の席に戻る……のだが。
「り、璃南、これ、どういうことかな」
そこには、見慣れた友人知人の姿だけがある。
あれだけ熱心に参加していたはずの、「都内某所の大手デザイナー事務所所属の男性デザイナー」たちの姿は、ない。
ついでに、あの餓鬼たちも。
「あれ?」
璃南は怪訝さを隠し切れず、友麻に顔を向ける。
「デザイナーさんたちは? 何があったの?」
「それがさ……」
怒る以前に唐突過ぎてついていけないのを隠さずに、友麻は首を力なく振る。
「何があったのかわかんないけど……なんか……急に『用事があるから帰る』って言いだして、あれよという間に……」
その答えに璃南は、ある意味腑に落ちた思いを味わう。
友麻は更に途方に暮れた様子でこぼす。
「何があったのって、ほんと、こっちが訊きたいよ……」
璃南は、溜息をつき、自分も困惑している風を装いながら、内心でだけ呟く。
『みんな、命拾いしたんだよ。人食い鬼との合コンなんて、聞いてないよね?』