「……去(い)ね。私が用があるのはお前ではない」
攻撃されたことも意に介していないかのように、死剣士は肩に太刀を担いで、そのまま前に進もうとした。
黒々とした黒曜石のような目は、闖入者の吸血鬼を映してもいない。
「まあ、お待ちなさいな。あんなフツーの子に構うよりも、もっと面白いことがあるのよ」
吸血鬼と呼ばれた娘は、緋色のコウモリの翼をマントのように広げ、まるで誰かと踊っているかのように、くるくると路地の上で嬉し気に回り始めた。
「あなたにいい話を持ってきたの。あなたのことは聞いてるわ。従兄弟や伯母からね」
訊かれてもいないのに、悪魔めいた吸血娘は、そんな事情を説明し始める。
一方、死剣士はまさに聞いていないらしく、そのまま前に進もうとした。
が。
その体が、何かに押し返された。
死剣士の大きい目が、すうっと細まる。
まるで見えない壁がそこにあるかのように、なんらかの妖力で、彼女の歩みが押し留められたのだ。
いや、「まるで見えない壁があるように」ではなく、本当に「妖力でできた見えない壁」がそこにある。
「まず、あたしのことを聞いて。あたしは、フランスの吸血鬼の一族に連なる者よ。ただし、母は旧き精霊のヴィーヴルなの。だから、こういう見た目なのよ、割と気に入っているわ」
そう言って、吸血娘は、自分の悪魔めいた角に触れ、コウモリの翼を軽く開いて見せた。
額の中央の、輝く緋色の宝石が見える。
路地に差し込む薄い光で、鮮やかな金髪が王冠のように輝いた。
「名前はリュシエンヌ。そう呼んでほしいわ」
そこで、ようやく死剣士は吸血娘リュシエンヌに対して向き直った。
静かな目を、彼女に注ぐ。
「……そのリュシエンヌが、私になんの用だ?」
「あなたのことは聞いてるわ。陵(みさざき)。黄泉の女神に仕えるヨモツシコメ。でもね、ちょっとそのあたりのことについて考えてみて欲しいのよ」
どうも、吸血娘のリュシエンヌは、死剣士の陵のことについて、かなりの情報を得ているようだ。
「あなたは、あんな弱い一般人を追い回す人生で、本当に……」
満足しているの、とリュシエンヌは言いたかったのだろう。
だが、その前に太刀が一閃していた。
見えない妖力の壁が、硝子が砕けるようにばらばらと崩れ去る。
さしものリュシエンヌも一瞬言葉を失った。
「弱い一般人、か。それが厄介なことも多々あるのだ。お前には、わからぬだろうが」
消え去った障壁を悠々踏み越えて、陵はそのまま路地を抜けようとした。
「待ってってば!!」
リュシエンヌが小さく何事か唱えた。
ふと、陵が自分の動かなくなった足を見る。
どういう訳か、華美な袴に包まれた陵の両足が、袴ごと石に変化しつつあった。
毛細管効果で吸い上げられる水のように、石化はあっという間に進み……
短い気合と共に、陵は太刀を振るった。
いくら長大な太刀でも、無理な姿勢、それにこの距離ではリュシエンヌに届かないはずだったが。
「きゃあ!? ちょっと酷いじゃない!?」
どういう訳だか、空間そのものを切り裂いて、陵の斬撃はリュシエンヌに到達していた。
マントのような翼が切り裂かれて、血がしぶく。
いつの間にか、陵を襲っていた石化効果は消えうせている。
ひゅん、と、陵が再び太刀を振るった。
咄嗟に魔法で上空に逃れたリュシエンヌの下で、雑居ビルの壁に嘘みたいに綺麗な亀裂が入った。
「出鱈目ね。正面からやり合ったら無理かも」
リュシエンヌは、吸血鬼の父から受け継いだ、昏睡に誘う危険な眠りの魔法を浴びせようとしたが、陵の太刀の方が速かった。
真っ二つに切り裂かれそうになるのを、魔法でどうにかいなす。
「そう、残念ね。やり方を変えるわ!!」
リュシエンヌはそのまま、空気に溶け込むように消えうせた。
気配をうかがい、彼女が完全にこの場から去ったと確信してから。
陵は、悠然と、以前の歩みを再開したのだった。
獲物に忍び寄る、死神の歩みを。