坂下大吾(さかしただいご)は、自分の部屋の居間で、着替える気力もないまま、座り込んでいた。
さっきのあれはなんだったんだろう。
生々しく記憶に蘇るのは、怪物としか思えない異様ないでたちの、太刀を持った女と、なぜか助けてくれた形になった、あの緋色の悪魔みたいな娘だ。
助かった、という安心感はあまりない。
いや、確かに形だけ見れば助けられたのだが、到底、大吾のような普通の人間が安心できる状態にない。
なにせ、一日だけで化け物二体に出くわしたのだ。
常識が根本から覆ったし、正直、今現在、何が夢で何が現実なのか、全く確信が持てない。
あの死神みたいな女に追いかけられて転んだ時は痛かったし、さっき部屋に帰ってから自分の顔を叩いてみても痛かった。
感覚も細部まで生々しいし、到底夢だとは思えない。
だが、さっきのあれはなんだ。
不気味な化け物のような女。
自分を殺して「黄泉」とやらに連れていくと宣言し、太刀を振りかざして追いかけてきた。
周囲の人間に、助けてくれ、警察を呼んでくれと叫んでも、彼らにはその女の姿が見えないらしく、明らかに狂人を見る目で見られただけだった。
そして、いきなり助けてくれたあの少女。
コウモリの翼に、角があった。
額に何か宝石みたいなのが光っていた気もする。
どう考えてもこの世の生き物ではない。
一体、あれは何で、自分は何に巻き込まれたのだ。
誰かに説明してほしいが、そんな者はアクセスできる環境に存在しないと、自分が誰より理解できている。
例えようもない心細さと恐怖で、大吾は今や何もできない。
今しもあの死神女が来るかと思うと、無防備になる一切のこと――入浴したり食事したり、ましてや眠るなんてこと――が、全くできなくなっている。
時間を見ると、思ったより経過していない。
逃げ切って自宅アパートの部屋に駆け込んで鍵を閉めて閉じこもる。
恐怖のせいで、時間が極端に遅いのだろうと、大吾は見当をつけた。
遮光のカーテンを締め切ってはいるが、一体いつ、あの死神女が窓を破って現れるかと思うと、全く安心感はない。
一体、自分が何をしたというのか。
今日日うっすら灰色程度の企業に就職し、なんとかやってきた。
特に幸運でも不運でもなかった。
なのに。
「ようやく見つけたわ。もう大丈夫よ」
その声は、いきなり背後から聞こえた。
凄い勢いで振り返る。
ぽかんと、大吾は口を開けた。
さっきの女が、いた。
死神女の方ではなく、緋色の悪魔娘の方だ。
全ての表情を失って固まっている大吾に構わず、その悪魔娘は、手にコンビニ袋らしきものを下げたまま、大吾の寄りかかっている座卓の向かいに座った。
「びっくりしてご飯もたべていないでしょう? ちょっとお腹に何か入れた方がいいわよ? そこのコンビニで、食べ物と飲み物を買ってきたから」
そう口にすると、悪魔娘は、温めてあるらしいからあげ弁当を大吾の前に置いた。
もう一つの小さな袋からは、500mlの缶ビール。
自分用にも買ってきたのか、缶ビールもう一本と一緒に、とんかつサンドを目の前に置く。
「あ、あ、あの……」
自分の部屋、目の前に、どう見ても人外がいることに驚けばいいのか。
それとも、いきなりその人外に思いがけない親切心を発揮されたことに驚けばいいのか。
どちらにも着けず、混乱しきった頭のまま、大吾は目を白黒させるばかりだ。
「大丈夫よ。安心して。私はあなたの味方。名前はリュシエンヌっていうの。吸血鬼よ」
「は、はあ……」
大吾は、思わず目の前の吸血娘をしげしげと眺めた。
今こうして見ると、目も覚めんばかりの美少女だ。
美少女吸血鬼が自分を助けてくれて、そして面倒を見に部屋に押しかけてきたなど、ファンタジー小説を愛読していた学生時代だったら大興奮していたところである。
が、今はあいにくそれなりの大人になり、そんなことを単純に信じない程度の理性は身に着いている、
「あの、さっきの、刀を振り回していた死神みたいなの……」
そういえば、あのあとどうなったのだろう。
こうしてここにいるからには、このリュシエンヌという娘は無事なのだろうか。
まさか、あの化け物を、この娘が倒したとか?
そんな展開だったら有難いのだが。
「あの人は、当分、この部屋に近付けないわ。結界を張っているから。しばらくの間は安心していいわよ。それより、あんな酷い目に遭ったのだもの。落ち着くためにも、何か食べて。さあ」
リュシエンヌが、弁当のラッピングを外してくれた。
ふわりと上がった湯気と香ばしい肉の匂いに、大吾は今更空腹を思い出した。
とりあえず空けてもらったビールを手に取り、一気にあおる。
すきっ腹に、冷えたビールが流れ落ち、大吾はようやく人心地ついた。
「さ、食べて食べて。食べながらお話しましょう?」
安心したら、食欲も湧く。
大吾は唐揚げをほおばった。
じゅわりとした肉汁に安堵感が湧きあがる。
「ねえ、あなた、あの死剣士さんに狙われる身に覚えでもあるの?」
大吾があらかた弁当を片付けたくらいになってから、リュシエンヌが切り出した。
彼女は、とんかつサンドを半分食べ終えたところだ。
死剣士、というのが、あの死神女のことだろうと見当がついたので、大吾はぶるぶると首を横に振った。
「いえ……特にこれといったことは……。あんな人、初めて見ましたし、特にああいう人を怒らせそうなことは何も……」
困惑と共に、大吾は正直なところを吐露した。
本当に全く思い当たらない。
怪談や都市伝説では、古い祠のご神体をどうこうしたら祟られた、などという話があるが、この近辺に、そんな気の利いた「祠」は存在しない。
「あの、リュシエンヌさんは、あの死剣士って人については何か知らないんですか? なんで狙われてるのか、俺も訊きたいんですけど……」
大吾が逆に質問するとリュシエンヌは腕組みをして考え込んだ。
「あの人は、この国の死の女神に仕えている死神の一人なのよ。普通、ああいう戦闘的な形で現世に現れるのは、死の女神の特命を帯びているからだわ」
大吾はひゅっと喉が鳴った。
「え、じゃあ、俺、死の女神に狙われているってことなんですか?」
全くの初耳というか、スケールが大きすぎてにわかに信じられない。
自分はごく平凡な人生を歩んできた凡人だ。
そんな大層な神様に命を狙われる覚えなどない。
一体、どうしてそんなことになっているのだろう。
ふと。
リュシエンヌが怖いくらいに真剣な顔になった。
「さっきから、術を使っているんだけど。あなた……」
そう言われ、大吾はぶんぶんと首を振った。
まるで震えなのか否定の仕草なのかわからぬほどに、その激しい動作は一体化し、彼の拒絶を端的に表していた。