目の前に、血を流した人間が倒れている。
男女三人。
区切りでいうと、女性一人と、男女のカップルが一組。
人間、死骸になると、顔の特徴がなくなるものだが、坂下大吾には、その男女の顔をはっきり見分けることができた。
一人は、大学時代に付き合っていた彼女。
半年ばかり付き合っていただろうか。
そしてもう二人が、職場の飲み会で知り合った同期とその彼氏だったはずだ。
彼女の方はモデルばりの美人だったが、彼氏の方は「イノシシ武者」という感じ、体育会系がそのままユニフォームをスーツに着替えたという雰囲気のいかつい男性だ。
三人とも血を流していたが、流す場所が違う。
彼女だった女の方は、胸の下、腹との境目あたりから、蛍光緑だったであろう柄物Tシャツが、べったり血に濡れていた。
腹部を刺されたのであろうことは明らかだ。
そして、男女の方。
血を流しているのは、首からだ。
見たくないような傷が、それぞれの首筋にある。
大吾は額に手を当てた。
そうだ、身に覚えがある。
彼女を、殺そうと思ったのはいつか、思い出せない。
思い出せないくらいに、咄嗟の殺意だったのだ。
些細な喧嘩だった。
彼女の束縛が鬱陶しかったが、彼女は大吾は自分が注文が多いくせして、自分のほうでは彼女の頼みを何一つ聞こうとしない、勝手だ、うんざりだ、と断言した。
『アホらし。あんたと付き合ったのなんて壮大な時間の無駄だったわ』
吐き捨てるように言われた一言が、大吾の中の何かを壊した。
足音荒く大吾の部屋から出ようとする彼女を、台所から包丁をひっつかんで追った。
玄関で、刺した。
ほぼ、即死に近かったはずだ。
とにかく死骸をなんとかしないとと思い、免許を取り立て、親に買ってもらったワンボックスカーに死骸を積み込んで、奥多摩の山中に向かった。
幸い、まだ、死骸は発見されていない。
男女の方は、これより込み入っていた。
突如彼女が蒸発した――周囲は、彼女の方が精神異常だったらしいという、大吾の流した噂を信じた――気の毒な大学生という時期を経て、晴れて就職した企業の、気が進まない同期の飲み会で、女の方と出会った。
同期にこんな美人がいるとは知らなかったが、大吾が話しかけると、にこやかに対応してくれた。
――合コンではなく、同期の親睦を深めるための飲み会だということを忘れていた。
常に用意している、ネットで不法に手に入れた睡眠導入剤を彼女のグラスにいれ、いわゆる「お持ち帰り」した。
面倒なのはここからだ。
彼女が強姦されたと朝になって騒ぎ出した。
他の企業に勤めている、筋肉の塊みたいな彼氏を呼ばれた時には、一気に血の気が引いた。
女性一人なら、なんならもう一人くらいこっそり殺してもと思ったが、猛獣みたいな彼氏を呼ばれた時は、自分が死を覚悟した。
それでも、結局生身の人間には違いなかった。
こっそり残りの睡眠導入剤を出した茶に混ぜた。
最初に女が、間もなく男も昏倒した。
首の下にビニールのゴミ袋とタオルを敷いて、二人の喉笛をかっさばいた。
昏倒したまま、声を上げることもなく、二人とも絶命した。
周囲に見とがめられないように、二人の死骸を車に積み込めたのは、奇蹟に思えた。
最初の彼女の死骸とそんなに離れていない場所に、二人の死骸も埋めた。
……仕方ないじゃないか。
好きで、こんなことをした訳じゃない。
状況がそうなったんだ。
人間は本能に逆らえない弱い動物だ。
欲に流されたって、仕方ないじゃないか。
◇ ◆ ◇
「呆れたわね。ナチュラルに狂ってるわ、この人」
自分の術で、昏倒させた大吾を見下ろしながら、リュシエンヌは心底げんなりした目で彼を見下ろした。
坂口大吾の部屋では、しんしんと時間だけが過ぎていく。
リュシエンヌの術で、映画みたいに彼の記憶を確認した陵(みさざき)は、じろりとリュシエンヌを振り返った。
「……だから言ったであろう。『平凡な奴に見えても始末に負えないことがある』とな」
「あー、ごめん。だって、そんなことだなんて思わなかったんだもの」
自分の見る目のなさにがっかりしたのか、リュシエンヌは天井を仰いだ。
安アパートの白っぽい天井。
「で、どうするの?」
リュシエンヌは、なんとなく答えを予想しながらも、そう尋ねた。
「こうする」
陵は、白い手を、うつぶせに倒れた「凡人の顔をした連続殺人犯」の首の下あたりに突き込んだ。
まるで水に手を突っ込むように、ごく自然に繊手が大吾の肉体に潜り込み。
次に引き上げられた時は、その手に、もやもやと薄黒い、人影のようなものがひっつかまれていた。
……坂下大吾の魂だ。
水から引き揚げられた魚のように、びちびちと跳ねている。
「ねえ、この後、話があるの」
リュシエンヌは、そう切り出した。
黄泉に続く巨大な空間の穴――奇怪な色彩の詰まった特大の花みたいに見える――に入り込もうとした陵が振り返る。
「時間ができたら、Kホテルの1202号室に来てくれない? 十日まではいるわ」
「……お前の用向きというのはわかっている。主が教えてくれた」
「あら」
リュシエンヌの美貌が、更に華やかに輝いた。
「……一応返事はしに来るつもりだ」
その一言を最後に、陵は黄泉の穴に入り込んで姿を消した。
ばいばいと手を振りながら、ふと、リュシエンヌは足元に転がっている、たった今スイッチが切れたように生命活動を停止した、坂下大吾の死骸を見下ろした。
「……そういえば、コレどうしようかしら? 通報するわけにはいかないわよねえ?」
もし警察がすぐに見つけて検死しても、原因不明の突然死、すなわち「変死」で片づけられるだけであろう。
「ま、どーでもいいわね。なーんか連続殺人犯にオゴッちゃったのはヤバイ気がするけど、そういう罪ってないわよね……」
ごく大まかな日本の刑法の知識と、伯母や伯父、従兄弟をはじめとする日本の人外の倫理規定をひっくり返し、多分この程度は問題なかろうと判断する。
「……一応、伯母様には連絡しましょうっと」
ふわりと一陣のいい匂いの風を残し、吸血娘リュシエンヌは、幾度となく惨劇の現場となったその部屋から姿を消した。