3 ダイモンとメフィストフェレス

「俺は、今は、ダミアン・ウィルコックと名乗ってる」

 

 あかがね色の髪の男性は、すいっと大きな手を差し出した。

 反射的に握り返そうとして。

 佳波の目に、おぞましいものが映った。

 髪だけでなく全身がいけにえの炉みたいなあかがね色に輝く魔神。

 悪魔の哄笑をたたえる顔は、禍々しい文様で彩られ、魔性の者だと雄弁に物語る。

 額からそそり立つ不気味な一本角、背中に燃え上がるような二対の翼が、ぞっとする風を感じさせた。

 そんな魔物が、目の前の男性の姿と二重映しになっているのだ。

 

 思わず固まった佳波の手を勝手に握り、ぶんぶん振りながら、ダミアンと名乗った彼は器用にウインクして見せた。

 

「もっと親しまれている呼び名がある。ダイモン《悪魔》。できればダイモンって呼んでくれないか? 気に入ってるんだ、この呼び名」

 

 ダイモンの言葉に、佳波は呆然としながらもうなずくしかない。

 この人はなんなんだろう。

 というか、私はどうしたんだ。

 

「あなたのことは、この猫ちゃんから説明された?」

 

 尋ねられ、佳波は、一瞬ポトに目をやった。

 ポトがにゃあん、と勇気づけるように鳴く。

 戸惑いながら、彼女は、ええ、と答えた。

 

「でも、そんな……そんな馬鹿な……私は……」

 

 言葉が尻すぼみになるのは、状況がどうしてもポトの言葉の通りとしか思えなくなっているから。

 自分が「旧き龍」だとかいう、神様だか何かだと断定してしまえば、色々全部説明がつくとわかってしまう。

 おそらく、目の前のこの人も、「人間ではない何か」なんじゃなかろうか。

 

「君は、とても古い神の末裔で、その血が顕著に甦った人だ」

 

 ダイモンは、佳波をベッドに座らせ、自分は手近の椅子を引き寄せて座った。

 

「君は自分を日本人だと思ってるだろうけど、君の血は、日本という枠組みができる前から……いや、日本だけじゃなく、人類が国という概念に思い至る前、もっと言うなら、世界が今のような形をしていなかった頃からの神だ。由緒という点でも、力という点でも、そうそう並び立つ神はないくらいだ」

 

 こういうことを言うと一部の向きは激怒するんだが、と前置きし、

 

「君の血の源になった神に比べれば、聖書の神などひよっこもいいところさ。そのくらいの存在を、我がアメリカの同盟国で見つけられたのはこの上なく幸いなことだ」

 

 ぽかんと聞いていた佳波は、アメリカの同盟国というところで、不意に現実に引き戻された。

 そういえば、ここは米軍基地だ。

 

「その……私が、本当にあなたの仰るような存在だったとして」

 

 佳波は、つばを飲み込んだ。

 

「なんで、アメリカの人が、私に用があるんですか? どういうことなの?」

 

 佳波はそれなりに、国際ニュースにも目を通す方だった。

 アメリカ合衆国の宗教的保守層というのは、色々と厄介だということくらい知っている。

 あちらのそういう方々の奉じている聖書の神は、唯一絶対ということになっているヤハウェなのだから、それ以外の神と接触などするのは、かなりのリスクなのではないだろうか。

 今のアメリカの政権は、保守系だ。

 そしてアメリカ軍が動いているということは、政権の意思があるということで。

 

 佳波の混乱しきった頭でも、このくらいは判断できる。

 

「それ以上は、我らのボスから話す。大丈夫だ、あなたにとって悪い話ではないことを、このダイモンが保証する。少なくとも」

 

 一瞬だけ、ダイモンは躊躇したようだった。

 

「あなたが今まで不当にも甘んじてきた境遇に比べれば、かなりまともな条件を、あなたに提示できると約束しよう」

 

 そうだ。

 

 佳波はまざまざと記憶が蘇った。

 自分は寄る辺なき身の上になってしまったのだ。

 手持ちのはした金が切れる前になんとかしないと、本当にこの現代で野垂れ死にの可能性もあるのだ。

 

 それを、救ってくれる――

 

 佳波は、圧を感じるダイモンの紫色の目を見据え、きっぱりと、うなずいた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「やあ、ミス・クラガノ。お会いできて光栄だ。本当に光栄だよ。私のような者でも、あなたのような存在に出会えることはそうそうあることではない」

 

 豪奢な執務室のような部屋に通され、佳波はその男性と向き合った。

 こちらはダイモンと違って、はっきりコーカソイドだとわかる、金髪の壮年男性である。

 細身の体つきだが、貧相な感じはまるでしない。

 いたずらっぽいが知性に輝く灰色の目を持った、細面の顔立ちは、単純に美形というより、様々な意味での「色気」を感じさせた。

 

 同時に。

 佳波は気付く。

 一瞬、目の前の人間に重なるように、山羊の角と蹄を持った、まさに悪魔というイメージそのままの生き物の姿が重なった。

 

 この人も、人間でない?

 悪魔か何かなんだろうか。

 米軍が悪魔を、それも複数飼っている……。

 

「まあ、座りたまえ。猫ちゃんもね」

 

 佳波は抱いて連れてきたポトを、すすめられたソファの片隅に下した。

 自分も座る。

 荷物の中から、一応ビジネススーツらしきものを引っ張り出して着用しているのだが、この執務室の豪華さを見ると、もっといいスーツがほしいところだ。

 

「改めて自己紹介しよう。私はオスカー・クロックフォードと、今は名乗っている。もちろん、人間ではないのはわかるだろう?」

 

 今しがた佳波がはっとしたのを面白がるように、クロックフォードはにやにや笑った。

 

「私は、いわゆる『悪魔』と呼ばれる存在に分類される。ファウスト博士の話はご存知かな? メフィストフェレスは?」

 

 佳波は目を見開いた。

「ファウスト」なら、高校生の頃に読破した。

 あの、メフィストフェレス。

 それが目の前にいるのだ。

 

「まず、いきなり驚かせるようなことをしたのをお詫びしたい。そして、大変な目に遭われたことをお見舞い申し上げる。勝手ながら、あなたのことは調べさせていただいた」

 

 痛ましそうな目で、クロックフォードは佳波を見詰める。

 

「まず、理解してほしいのは、あなたは精神病ではない。あなたが幻覚だと思っておいでだった諸々は、全て現実だ。ただ、普通の人間には認識できない場合も、多々あるというだけでね」

 

 いうなり、目の前に座っているクロックフォードの肉体が変形した。

 さっき接触した時に見せた、あの姿。

 炎をまとった山羊の角、地獄の火のように輝く目、山羊の蹄に、とどめは衣装。どう見ても中世ヨーロッパの富裕層みたいなデコラティブな衣装だ。

 

「ああ……私が本の挿絵で拝見したあなたの姿とは違いますね。本物の方がかっこいいです。お会いできて、こちらこそ光栄ですよ」

 

 なんだか今更騒ぐのもおかしくて、正直な感想を伝えたら、クロックフォード、いやメフィストフェレスは面白そうに笑った。

 一瞬で、その姿が人間のそれに戻る。

 

「さて、あなたが『旧き龍』だという事実はお伝えしたと思うが、恐らくにわかには信じがたいと思う」

 

 そう告げられ、佳波は首をかしげた。

 

「なんで、私がそんなものだってわかるんですか? まるで実感がないんですが」

 

 待ってましたとばかりに、メフィストフェレスが身を乗り出す。

 

「日本には、多頭龍の伝説があると思う。最も有名なのは、神話の八岐大蛇(やまたのおろち)かな?」

 

「私の先祖がそれなんですか?」

 

 佳波が信じがたいという表情を見せると、メフィストフェレスは手を振ってその推測を退けた。

 

「いや。あなたは更に旧く、格上の存在の子孫だ。九頭龍(くずりゅう)はご存知かな? 箱根と戸隠が有名だったはずだが?」

 

 いやしくもオカルトマニアとしては、九頭龍は外せない。

 神秘の龍神。

 なんでも願いを叶えてくれると、箱根の九頭龍神社では言われているが。

 

「世界が今の形になる前のことだ。神とは、龍たちだった。彼らが世界を創り、生命を創造した。もっとも、それは役割は後発の神にかすめ取られたがね。しかし、過去にあった事実は事実。この世界創造の龍神たちの一柱こそが、九頭龍だったのだよ」

 

 そんなことが。

 佳波の心臓はバクバク鳴った。

 かつて先史時代、世界的に蛇=龍を崇める文化が広まっているのは知っているが、その神話はほとんど残っていない。

 目の前の悪魔が語る物語こそが、忘れられた神話なのだろうか。

 

「しかし、時代が下がり、世界が変わると、旧き龍たちは後発の新しい神々に追われ、迫害され、忘れられた。しかし、彼らを崇めた民の間に、彼らと混じり合った血が残った。その結実が、ミス・カナミ、あなただよ」

 

 メフィストフェレスは身を乗り出した。

 

「龍の民も迫害されたからね。旧き龍となると、残っている血も極端に少ない。しかし、その残り少ない血から、あなたという奇蹟が現れた。これを見逃せるほど、我が国は呑気な状況ではない」

 

「待ってください」

 

 佳波は困惑と共に叫んだ。

 

「その、何か証拠があるんですか? 私、自分がそんな大層なものだなんて自覚はないんですが。特になにか特別な力を感じたことなんか」

 

 ブラック企業や毒親に負けてしまう世界創造の神など、聞いたこともない。

 

「あちこちで出くわす妖怪たちが、カナちゃんに忠誠を誓ったにゃろう?」

 

 割り込んできたのは、今まで香箱座りで話を聞いていたポトだった。

 

「あれもカナちゃんの力の一つにゃ。自在に自分の思い通りのことを考えさせる、精神支配にゃ。カナちゃんが嫌だと思ってきたあれこれも、結局そこから逃げ出すために、カナちゃんが向こうを仕向けてきたことなんにゃ」

 

 それが証拠に、カナちゃんの好きな人たちは、徹底的に良くしてくれたにゃろう?

 嫌いな人に嫌われるのは、悪いことではないにゃ。

 ポトにそう言われて、腑に落ちたような落ちないような気分になる佳波だった。

 

「納得いかないかね?」

 

 にやりと。

 何か企んでいる笑みを、メフィストフェレスは浮かべた。

 

「なら、証拠をみせてあげよう。かつて、私がたぶらかした男のように、己と向き合うがいいだろう――結果は、正反対になるだろうけどね?」