「あのー……」
佳波は、困惑と共に、周囲を見渡した。
遠くに、海。
潮風がここまで流れてきて、佳波の虹色の髪をなぶる。
眼下に、軍事施設とそこを行きかう米軍属たち。
そこは在日米海軍司令部の、屋上だった。
「ここで何をするんですか?」
メフィストフェレスによって、いきなり屋上に連れ出された佳波は、屋上の排気塔の間でにやにや笑う彼を見ながら、不思議そうな顔をするしかない。
この人は何を考えているのだろう?
足元で、連れてきたポトが鳴いた。
「にゃあ。大体何をするのかは見当つくけどにゃあ。カナちゃんは多分びっくりにゃ」
ポトを見下ろしながら、佳波はますます怪訝な表情が顔に浮かぶのを感じていた。
つまりはどういうことだ。
「さて、じゃあ、始めようか?」
朗らかと言える声で話しかけてきたのは、ダイモンだった。
先ほどまでのスーツから、ライダーズジャケットにニット、綿パンの小洒落た格好になっている。多分これが普段着なのだろう。
「始めるって、何をですか?」
全くわからない。
きょとんとしたまま尋ねる佳波に、ダイモンが禍々しい笑みを返した。
一瞬、佳波がはっとするような嗜虐的な表情。
すいっと、メフィストフェレスが排気塔の間に、何かを避けるように歩み入った。
意味がわからず、佳波がまた何か言おうとした矢先、その異変は起こった。
風が吹いた。
思わず目を閉じなければならないほどの突風。
佳波が目を開けた時に。
目の前に、凶悪に輝く魔神が浮かんでいた。
地獄の炉を思わせる、あかがね色の皮膚の巨体。
筋肉質な体躯に、額にはそそり立つ一本の角。
地上の全てを笑いのめすかのような表情を強調する、顔の文様。
背中には、不気味な鬼火にも似た色彩の、二対の翼。
獅子のような鉤爪の生えた腕、そして巨大な鷲そのものの脚。
とどめには、体の後ろに毒針の生えたサソリの尻尾が揺れている。
ごうごうと唸る風に取り巻かれた、それは、おぞましい神性だった。
「にゃあ。これは大物にゃ。パズズさんにゃ」
流石に緊張の感じられる声音で断言したのはポトだった。
「パズズ……」
「ほう、日本でも名前は知られているのか? 嬉しいね」
ダイモンと名乗っていたその魔神が、にやりと笑いを深くした。
「俺は、確かにパズズさ。しきりに名前を呼ばれたのはもう遠い昔、砂漠の広がる国でだったけどな。なん十年か前には、いたいけな女の子に取り憑く悪魔ってことにされた」
風の音に交じって、くつくつと喉を鳴らす笑い声。
「悪魔どころか、人間様のお言葉で表現すれば、『邪神』ってことになる。まあ、普通の人間に、俺に対抗する手段はない訳さ」
唖然として見上げていた佳波の脳裏に、学生時代のひところ、しきりに見返した古い映画が浮かんだ。
悪魔憑きのおぞましさを表現した映画だった。
このパズズが幼い女の子に憑依するという内容だったか。
あの映画は間違ってるな、と佳波はぼんやり思う。
これほどの力がある邪神が、なんの力もない女の子を悩ますものか。
それは旧い、風の邪神なのだ。
竜巻でも送り込んで、その国の主要都市でも潰した方が、よっぽど効率よく人間社会を破壊できるだろう。
「さあて、こういうのは気が引けるけどな!!」
いきなり。
強烈な熱風が佳波を襲った。
ばしばし皮膚に当たるのは、焼けた砂だろう。
何かが剥ぎ取られるような感触……
いきなり。
視界が開けた。
宙空に浮かんでいたパズズと同じくらいの位置に、目の高さがあるのを、佳波は意識することができた。
同時に、視界に違和感を覚える。
なんというか、横に広い。
風景写真集などにある、パノラマカメラで撮影した風景が、実際の視界に展開されている感じだ。
同時に。
全身に、異様な力がみなぎるのを、佳波は感じた。
身体的な限界というものを、まるで意識しない自由さ。
今なら大陸一つでも破壊できそうだ。
精神的にも、限界が広がったと感じる。
遠くの海と船、街並み、人間の息遣いに、上空の気流、全てを神のように認識していた。
牙がひらめいた。
パズズを、いくつもある口の一つでがっきと捕らえてから、佳波は自分自身の肉体を意識した。
自分の体が。
佳波は気付く。
自分は、人間ではなくなっていた。
虹色に光り輝く、九つの首を持つ龍蛇。
それが、自分だった。
ある首からもう一つの首を見やると、光そのもののような、二列に並んだ角が見えた。
幾重にも折りたたまれた全身でも、屋上のかなりのスペースを覆いつくすほどの巨大さだった。
ぞろりとした牙だらけの口の一つにくわえたパズズは、人間なら一口大の食べ物みたいに頼りなく見える。
「ふうう。わかったろ? これが君の正体さ」
一時的に、人間としての「皮」を吹き飛ばしたのさ、と、パズスが説明する。
「君の力はわかった。離してくれないか。君は、俺みたいな存在でも殺せる。しかしだ、俺はまだ死にたくないんだ」
君は酷いことなんかしないだろう?
なだめるように言われて佳波だった九頭龍は、はっと口を開けてパズズことダイモンを解放した。
さすがに緊張していたのか、風の音にダイモンの安堵の吐息が混じる。
「こういうことさ。君はこういう存在だ――認識してくれたかね?」
呆然に近い状態の佳波に歩み出てきたメフィストフェレスが、はるか下から話しかけた。
「さて。これからの君の身の振り方について提案がある。まさか、普通に暮らしたい、なんて無茶は、流石に言えないんじゃないかな?」
面白そうに笑うメフィストフェレスに、今や九頭龍になった佳波は、怒ることすら忘れていた。