「調査班は会議室に。残りは待機」
プリンスは、そう言い渡して指令を終えた。
「ハンナヴァルト一家の現在の居場所が判明し次第に次の作戦に移る」
D9、そしてダイモンも他の面々も、そのまま定刻までじりじりした時間を過ごすことになった。
◇ ◆ ◇
車を自宅のガレージに滑り込ませる前から、D9はおかしいな、という気がしていた。
自宅で待っているのは、家政婦のラナ一人。
そして、ラナは買い物は早い時間に済ませて、この時間になれば大体はダイニングキッチンで夕食の支度をしている。
キッチンからは、明かりが漏れているはず。
いや、キッチンだけではない。
屋内の各所と、玄関先の照明も、この時間になれば点灯しているはずなのに。
「にゃあ? おかしいにゃあ?」
後部座席のポトも怪訝な声を出した。
ガレージに車を滑り込ませ、照明の落ちた家に近づくにつれ、D9は黒雲のような悪い予感が胸中に湧き上がるのを感じた。
おかしい。
もう何日も留守にしている家のように見える。
ラナに限ってこんなことはないはずだ。
一か所くらい照明を点けるのを忘れても、家じゅう真っ暗にしておくなどということはあり得ない。
「ラナ!!」
D9は、鍵を開けて家に入り込んだ。
背後に、巨大化したポトが続く。
一応呼び鈴を鳴らしてみたが、インターホンから答えはなく、家の中から気配はしない。
「ラナ、どうしたの!?」
日が傾いて薄暗がりに支配された家の中を、D9は進んだ。
いつもなら彼女が鼻歌と共に料理している、ダイニングキッチンに向かって。
D9の原初の蛇の目は闇を苦にしないが、もちろんこれはそういう問題でもない。
ダイニングキッチンに踏み込む前から、ぞわりとした気配を、D9は感じ取っていた。
そこに一歩踏み込んだとたん、ポトが鋭い威嚇の鳴き声と共に背中の毛を逆立てた。
「……あなたは!?」
その薄暗がりで、優雅に茶をすすっているその人影に向けて、D9は鋭い誰何を突きつけた。
淡い色の華やかな金髪を長くしていても、違和感を感じないのは、問答無用でその男が美しく優雅だからだろう。
だが、灰色の目が酷薄なのを、D9の目は見逃さない。
上等のスーツを着ていても、完璧なスタイルでも、その闖入者の男は、隠しきれない不吉な血の匂いを放っていた。
「ラナ!?」
その男と向かい合うように、ダイニングの食卓に突っ伏しているのは、確かにラナだ。
様子がおかしい。
まるで居眠りするように、食卓の天板に上半身を伏せさせて動かない。
更には、D9の目は、ラナのほっそりした華奢な首筋に、血の流れた小さな傷を認めた。
二つ並んだ穴。
吸血鬼の、噛み跡。
「おや、お帰り。噂に聞いていた以上に美しいお嬢さんだ」
耳に快い美声も、今はD9の胆を冷やす効果しかない。
その男は、客用の上等なカップを受け皿に置くと、まるで天井から吊られてでもいるような、妙に軽やかな動きで、すいっと立ち上がった。
「あなたは……ハンナヴァルト一家の、甥の方ね。ファビアンとか、そういう名前よね。……わざわざ私を怒らせて死ににきた訳」
ラナの胸郭がかすかに上下しているのを感じ取り、D9は安堵した。
殺されていないなら、ナイトウィングがストックしてくれている薬でなんとかなるはず。
「そんな野暮な用事ではないよ。わかっているだろう? 貴重なる旧き龍のお嬢さん」
柔らかい笑みを浮かべながら、その吸血鬼……ファビアンが近づいてきた。
吊り上がった唇の隙間から、尖った牙が見える。
王子様的な甘美な美貌であるだけに、その禍々しさは余計に際立つ。
闇の中でも虹色の微光を放つようなD9は、視線でその吸血鬼を押しとどめた。
まるで大きな手で胸板を押さえられたように、ファビアンの体ががくんと止まる。
星のごとく輝く原初の蛇の双眸の魔力は、数々の神魔を屈服させてきた吸血鬼といえども、無視できないものだった。
素早くポトがラナの側に回った。
守ろうというのだろう。
「おやおや。そんな態度が、私に対してタブーであるというのを、理解していないのかな? 魅力的なお嬢さん、僕らのような二人は、もっと友好的に行くべきだと思わないか?」
まるで子供に言い聞かせるようなやんわりした声で、ファビアンはその血の色の輝く吸血鬼の目を、D9に向けた。
白く優雅な指で自分の唇に触れ、気取ったしぐさで微笑む。
その途端に、今までテーブルに突っ伏していたラナが、いきなり起き上がった。
まるで操り人形が糸で吊り上げられたみたいに、不気味な動きで立ち、吸血鬼と同じ色に輝くようになった目で、主であるはずのD9を睨み据えた。
ゾンビよろしく、そのほっそりした手を伸ばしてD9に迫ってくる。
慌ててポトが止めようとしたが、ふわりと彼女の体が宙に浮いた。
幽霊のように。
「ラナ!! やめるんだ!!」
D9はぎょっとして叫んだ。
ラナは、まるで聞こえないように、D9に突進してきた。
その動きは、あの猫のように生き生きと優雅なラナのそれではない。
まるで水流にもまれる木の葉のようにひらひらして、妙に滑らかな……あの、サーヴァントにされた人間たちと同じような、亡霊的でぞっとする動きだ。
掴みかかってきたラナを、D9は必死で抑え込んだ。
創世の龍たるD9の体力は、人間の姿を取っている時でも大したもので、そもそも荒事向きではないラナの力では、抗するべくもない。
だが、D9はラナを抑え込む以上の手荒な行為を行えない。
まずいと思った時には、D9の背後にファビアンが移動していた。
彼女の高貴で美しい肩に、ファビアンの指が食い込む。
むき出しのD9の滑らかな首筋に向け、象牙のような牙を降らせようと……
鮮やかな光が炸裂した。
ファビアンが吹っ飛んだ。
いつのまにか、D9の肩から背中にかけて、虹色に輝く触手のような細長い光のようなものが数条、周囲を照らしつつ湧き上がっていた。
それは、触手ではない。
龍の首だ。
輝く光、不可思議な力で構成された、幻の龍の首は、八条。
うねりながら、まさに獲物を狙う毒蛇のように、ゆらゆらと揺れながら、ファビアンを捕らえる。
D9は、人間の姿を取っても、龍の力に守られていた。
それは人と龍が融合した幻妖にして偉大な姿。
美しい人間の頭にある虹色の双眸が輝くと、ラナが原初の蛇の精神支配を受けて、がくりと意識を失った。
崩れ落ちるラナを床に横たえ、D9は幻の龍の力をまとったまま、ファビアンに向き直る。
星空の虹色をたたえたD9が、熾烈なまでに美しく輝きながら、敵である吸血鬼を捕らえようとする。
その瞳は怒りというより、破壊欲に近い壮絶なものに燃えている。
「じゃあ、表に出ようか、変態くん。まさか、いまさら逃げないよね?」
妙に猫なで声でささやいたD9の幻惑の視線を、ファビアンは物凄い勢いで強引に引き剥がし、一瞬でその姿が消え失せた。
いや、消え失せたのではない。
その体が、霧のような不定形になったのだ。
非実体と化した彼は、瞬間移動のような速度で逃げていく。
あっという間に、廊下を渡り扉の隙間から外に染み出し、見えなくなった。
「にゃあ!! 逃げるにゃ!!」
「構わない、むざむざ居場所のヒントを置いていっただけだよ」
D9は追わなかった。
ポトに周囲の警戒を頼み、ラナに向き直る。
「ラナ!!」
倒れた家政婦の様子を改めて確認すると、素早く自分の業務用スマホを取り出し、プリンスのナンバーをタップした。