ラナは、助かった。
ナイトウィングがD9の家に急行して持ち込んでくれた、新薬のお陰で、ラナは一瞬で吸血鬼の呪縛から逃れた。
「これはね、あなたの血から精製した解呪薬よ」
古き魔女であるナイトウィングは、持ってきたアンプルをベッドに寝かされたラナに注射してから、そう説明した。
D9の家の一階の一角、ささやかだかきちんとした部屋がラナの私室。
シンプルだが趣味のいいベッドに寝かされたラナの腕に、小ぶりな注射器の針が潜り込んだ途端、彼女の死人のようだった顔色が変わった。
同時に、明らかにまとっていた不吉な「死」の気配も遠のき、暖かい本来のラナの魔力が戻ってくる。
蒼白で強張った表情で彼女を見守っていたD9は、思わず安堵のため息をついて、ナイトウィングにしがみついた。
「あ、ありがとう……ねえ、もしかして、この薬って一本注射したら心配ないの?」
「ええ、今までのサーヴァント化解呪薬と違って、あなたの魔力と聖性をぶつけるから、一瞬で吸血鬼の魔力を追っ払えるわ。あと気を付けるべきは、襲われた精神的衝撃と、無理に体質を変えられた肉体的消耗の回復よ」
それと、再度襲われないように、身柄を安全な場所に移さないと。
ナイトウィングは、近くの軍病院の空きベッドがあると告げた。
しばらくラナをそこに避難させて、回復と、この新薬の経過を観察するのが、プリンスからの指示らしい。
「にゃあ。わたいがガードに着くにゃ。その間に、ディアナたちは、吸血鬼のケツだか心臓だかに、杭でも刺すにゃ!!」
ポトがにゃあん、と鳴いた。
「それと」
難しい顔で、ナイトウィングがD9の背中をさすった。
「悪いニュースがあるのよ。ライトニングなんだけど……」
「まさか、彼女も襲われたの!?」
再度、D9の顔が青ざめる。
「近いわね。優雅なことに、あいつらライトニングに招待状を送ったのよ」
その言葉に、D9は怪訝な表情を見せた。
「招待状……って」
「きれいな紙の手紙でね。さすがお貴族様って感じだわ。D9、マサチューセッツ州にある、ヘヴンリーフィールドって町は知ってる?」
初耳だった。
さすがにアメリカの細かい地理まで、詳細には把握していないD9である。
しかし、なんとなく不吉な予感が脳裏をよぎる。
「天国のような平原(ヘヴンリーフィールド)」。
今のこの状況にいると、死んだ後のことを表現しているみたいに思える。
「その、ヘヴンリーフィールドの街まで来いですって。多分あなたを奴隷化してから、彼女もどうにかする気だったのね」
そのナイトウィングの告げた内容に、D9は違和感を覚えた。
「でも、そんな露骨な手段を使ったら、Oracleの面々全員に知れて対策を取られるじゃないですか? それに、私を従えられる確証もなかったのに?」
あのファビアンとかいう奴の舐めた態度からすると、奴らは創世の龍の力がどの程度かなんて把握していなかったのは確実だと思う。
D9は、観察した結果得られた情報をナイトウィングに提示して、自分の目から見た限りの推測を述べる。
「それに、ヘヴンリーフィールドって街に何があるんですか? アジトでも?」
「それだけではないかも知れないわ」
D9の疑問に、ナイトウィングはきゅっと唇を噛んだ。
「どうも、その街自体がおかしいのよ。住人の様子が奇妙だって、複数の筋からの情報があるわ」
「おかしいって、どんな風に?」
うすら寒い予感を覚えつつ、D9は尋ねずにはいられない。
「……街に出入りする運送業者なんかの証言によると、街の生活時間がおかしいらしいのね。昼間は死んだようで、夜になると住民が活発だって」
低いナイトウィングの声に、D9は体を強張らせた。
遅かった。
もう、犠牲者が出ていたのだ。
街一つ丸ごと。
「……とにかく、これ以上は現地に着いてから話すわ。ラナを病院に連れて行ったら、みんなと落ち合ってヘヴンリーフィールドに向かうわよ。ついてきて」
ナイトウィングに促され、D9はうなずいた。
ベッドに近付き、ラナを抱え上がようと、身をかがめる。
◇ ◆ ◇
大きな磨き上げられた強化ガラスの窓には、町の灯が点々と映し出されている。
「彼女」は、足乗せ台にヒールを履いたうっとりするような曲線の脚を乗せ、手にしたグラスの中のワインをあおった。
豪奢な絨毯を敷き詰められた部屋は、煌々とした明かりに照らされていた。
太陽にまがう輝きに、欧州の貴族趣味としか思えぬ家具が一そろい、その中に、本物の太陽の下ならどれだけと思われる黄金があった。
美しい女だった。
まだ二十代前半程度であろう。
輝く金髪はつややかに肩を覆って垂れ、真紅のドレスの上にこぼれる。
化粧の力を借りてもここまでになる女はいまいと思われる、甘美な麗しい美貌である。
ワスレナグサ色の目は、面白そうに向かいに座る若い男に注がれていた。
「あなたらしくもない失敗だったわねえ。帰ってきた時は、凄い形相だったこと」
女は、ころころと響きまで甘い声で、男に話しかけた。
彼女と向かい合うように長椅子に寝そべった男は、D9が見たなら声を上げたであろう。
ラナをサーヴァント化した、あの吸血鬼、ファビアンである。
「なに、取り返しがつかないってほどではありませんよ、伯母上。奴らは来るはずだ、ここにね」
サイドテーブルに乗せたワイングラスをひっつかみ、一気に中身をあおって、彼は大きく息をついた。
抑えているが、怒りといら立ちの色が見える。
「そうねえ。お友達と連れ立って来てくれるでしょう……。彼女たちのうち、どのくらいがここまでたどり着けるかしら? どう思う、ファビアン?」
伯母と呼ばれたからには、この女はエルフリーデに違いなかった。
彼女は自分の失敗に怒りを隠せない甥を、面白そうに見つめた。
一見柔らかい笑みを浮かべているが、苛立つ甥の醜態を面白がっているようにしか見えない。
「……あの、D9とかいう龍を押さえればいいんですよ。そうすればなんでも我らの思うがままだ――世界そのものだって、ね。今までみたいに、ネズミよろしく逃げ隠れしなくて良くなる……」
まるで自分に言い聞かせるように唸るファビアンを、彼を吸血鬼にした伯母エルフリーデは面白そうに見つめた。
「ええ、そうね。そうなったら世界は私たちのものね。私たちが今わずらわされている限界なんか放り棄てられるはず。その時に何が見えるのかしらね?」
心底楽しそうに笑い、エルフリーデは窓の外に目をやった。
遠くに輝く灯が、導きの星のように、鋭い光を投げかけている。