ブルーノは待っていた。
「ほう、流石に早い」
煌々としたシャンデリアの明かりで照らし出された、本来なら主の部屋でほくそ笑む。
手紙を突き付けてから六分あまり。
Oracleの面々は、今潜んでいた湖畔の林から、この屋敷を取り巻く形になった。
首まで川の流れに浸かれば、川の水流そのものを感じ取れるように、ブルーノは神魔たちの巻き起こす魔力の流れを感知していた。
あれだけ高位の神魔たちなら、気配を殺すこともたやすいだろうが、あえてそうした工作をしていないということは、必要ないと判断したのか、それとも何らかの陽動か。
とにかく、ここに来させればいい。
ことに、あの娘がいる部屋に。
ま、自分のいる部屋でもいいが。
豪奢な部屋である。
主の好みの緋色がベースの絨毯はイラン製、壁際には日本の骨董品の壺、家具はヨーロッパのアンティークを現地で買い付けてわざわざ海を越えて持ってきた。
これを爆破しようというのだから、主の価値観というのはいまだによくわからない。
ま、あふれ出る彼らの富なら、同程度のものを別な場所に揃えるのもたやすいであろうが。
巨大なサメがそばをかすめるように、高位神魔の放射魔力の余波が全身にかぶさってくる。
ブルーノは嗤(わら)った。
窓の外にいるのは。
大音声と共に、窓が外側から破砕された。
きらきら光るガラスの弾丸が、雨あられとブルーノに降り注いだが、彼は気にしなかった。
飛び込んでくるあかがね色の禍々しい魔神、そして背中から幻の龍頭(りゅうとう)をゆらめかせた、虹色の女。
知っている。
あかがね色の魔神は、かつても主の邪魔をしてくれた存在。
メソポタミア由来の風の魔神パズズ。
そして、もう一人こそ。
主が今回狙っている標的。
旧き神、創世の龍の末裔、D9であるはずだ。
「さぁって。訊きたいことがあって参上したんですけど、お時間よろしいですか?」
有無を言わせぬ威圧感を放っているくせに、日本のビジネスマン風のやけに腰の低い表現で、D9は問いかけてきた。
怒りにきらめく虹色の目に睨まれると、急速に体から力が抜け、頭になにか違うものの意思がねじこまれる。
数百年生きてきても、ほぼ初めてといえる強烈な九頭龍の「精神支配」。
深遠な恐怖を感じるも、ブルーノはなんとか自分を落ち着かせた。
問題ない。
あの部屋にこいつらの仲間が入れば、そして、自分自身に指先くらい動かせる意志力の片鱗が残っていれば。
「ハンナヴァルト一家はどこだ? 白状した方が身のためだ。Oracleがお前さんらに有利なヘマを、二回すると思うなよ?」
背中の翼で、不気味に唸る風を起こし続ける魔神が、そのいけにえを今しも食らっているのではないかと思われる大きな口を歪めて、笑った。魔除けにすらなるという暴悪な表情。
「さあて? 多分、あなたが気にする必要はないと思いますよ?」
ブルーノは、階下の窓を破壊する大音声を耳にして、にやりと笑い。
同時に、次の瞬間起こるであろう衝撃に備えたのだ。
Oracleの面子といえども、気付くまい。
あの部屋に、爆発物のセンサーが仕掛けられているだろうことなんぞ。
視界が、予定通りに炎のオレンジ色に染まり……
「?」
ブルーノははっとした。
怪訝な表情で部屋を見る。
おかしい。
確かに爆発が起こったはずだ。
だって、ここにこの二人がいるということは、仲間の幾人かは、確実にあの娘のいる部屋に突撃を……
いや、確かに爆発は起こったのだろう。
振動があった。
壁が。
美術品が。
焦げて、すすまみれになっている。
漂う爆発現場特有の匂い。
炎が、衝撃波が、そして爆薬に仕込んでおいた、ヨーロッパの廃教会から盗んできた、聖母とキリストと十字架の破片が、荒れ狂ったはずだ。
しかし。
肝心の、派手に壊れるはずのこの屋敷自体に、大きな損傷はない。
ただ、奇妙な汚れだけを受けて、一瞬前と同じように建っている。
困惑のあまり視線を泳がせるブルーノに、パズズことダイモンが更に凶悪な顔で笑いかけた。
「なるほど、壁に爆発物と、何か霊験あらたかなものの破片でも仕込んで、対神魔用の罠にしたつもりだったか? お前らのことだから、ずいぶん罰当たりなことをしたんだろうな?」
その言葉に、ブルーノは真正面からダイモンの顔を睨んだ。
「一体、何をした……」
「俺たちは、もう十数年前の俺たちじゃない。戦法も進化しているという訳さ、仙術って知ってるか? 『物事の在り方に干渉して、その存在そのものを左右する』っていうことができるんだそうだ」
いまいち意味が取れないブルーノが怪訝な顔をしたからだろう、D9が付け足した。
「例えばね。特定の性質を『禁じる』ことができるんだ。包丁に切ることを禁止する。銃に撃つことを禁止する。……そして、家に、『壊れること』を禁止する」
そこに至って、ようやく、ブルーノは、ここに何が起こったか知った。
家に壊れることを禁ずれば、どんなに強力な爆薬を仕掛けようとも、「絶対に破壊されない」!!!
ブルーノは、一瞬で肉体を霊体化した。
数ある吸血鬼の能力の一つ。
少し勘のいい人間になら、もやの塊のような不気味な「何か」が見えるし、神魔にならごまかしようもない。
しかし、肝心なのは見栄えではない。
非実体となり、天井をすり抜けて上空に避難できるかどうかだ。
霊体のまま、物質をすり抜ける独特の感覚と、物質中を泳ぐ暗がり。
そのまま上空に出た。
――が。
まだ、暗い……
「おい、クソガキ。また会ったね」
聞き覚えのある女の声は、その上空の月影をも覆う巨大な影から聞こえた。
あまりにも巨大な翼が巻き起こす風が、霊体の状態のブルーノすら揺さぶった。
空を仰いで、彼は絶望した。
そこにいるのは、かつて主が手に入れ損ねた、雷の精霊サンダーバード。
まるで雷そのものであるかのような、燦爛ときらめく羽が、夜闇を圧する。
「死ね!!」
轟音。
そして、視界を塗りつぶす雷光。
それが、ブルーノが長い人生の最後に認識したものだった。