「そろそろ奴らが来るんじゃないのかい、上人様?」
皮肉な口調で言った武蔵を、上人、と呼ばれた老人がじろりと睨んだ。
「間違いなく来るじゃろうて。そなたの殺した男の娘、御霊士に加わったぞ。そなたを倒すお墨付きを得たといったところかの。まあ、あの女子そういうものを気にする性格ではないようじゃが」
大柄な老人は、含みを持った口調で武蔵を嬲る。
元は多少神経質な印象くらいだったであろう目つきは、既に多くの闇を溢れ返らせて陰惨なものになっている。
武蔵と老人がいる場所は、岩をくりぬいて作った窟の底だった。
天井が恐ろしく高く、八角形に整えられた部屋の壁の一つに、天井まで届く恐ろしく大きな扉のようなものがある。
本当に開けることができるのか、そもそも本当に扉なのかさえ分からない。
その扉の前には、奇怪で禍々しい紋様が織り出された錦の布が掛けられ、その手前に老人が座っている台座と、護摩壇が設えられている。
老人の出で立ちは奇妙だった。
高僧の纏う朱色の法衣を着ているが、袈裟一面に呪言が染め抜かれているのだ。
『呼ばれざる者』を讃える、あの呪言だ。
「で? あいつら迎え撃たなくていいのかい?」
片頬に更に嫌味ったらしい笑みを浮かべて、武蔵は老人に尋ねた。
「それがそなたの役目じゃろうが。そなたのような猪武者、それ以外の使いでなどないからのう」
息が洩れるような奇怪な笑いを見せながら、老人……いや老僧が言い募る。
「これが最後の機会やも知れぬぞ。どの道、このままではそなたはあの花渡なる娘に殺されるじゃろうて。それが嫌なら、先に殺すことじゃ」
「じゃあ、先に殺しに行くとするか。おっと、あの花渡の死骸、持ってきた方が良いか?」
武蔵の問いに、老僧が頷く。
「なるべくそうせい。伊耶那美の現身の亡骸が手に入れば、呪法も進むというもの」
「承った」
おどけた仕草で礼を取りながら、武蔵は口にした。
「崇伝大僧正《すうでんだいそうじょう》様」
◇ ◆ ◇
「これはまた……」
「勘弁して欲しいねぇ……」
陣佐と青海が、それを見上げながら呟いた。
花渡含む他の三人も、唖然とした顔つきだ。
やってきた金地院は、全域が赤黒い靄というかたなびく雲のようなものでできた、椀を伏せたような何かで覆われていた。
赤黒い半球はとんでもない大きさで、一部増上寺の敷地をも取り込んでいた。
「ねぇ、こいつって何だと思う?」
千春が黒耀の袖を引いた。
手甲を付けているので、その上の肘の辺りからだが。
「恐らく……『呼ばれざる者』を呼び出すための仕掛けじゃろう。気配からして結界の一種じゃろうが。この外側だけでも瘴気がこれだけ濃いのだ。中はこれどころではなかろう」
金地院周辺は、ひどい有様だった。
強大な疫鬼が溢れ、周囲の人間を襲い食らっていた。
状況把握と救援に駆け付けた寺社奉行所の精鋭たちは全滅、頼みの増上寺もどうにかモノの侵入を押し留めるのが精一杯で、外部に応援も呼べない状態だ。
無論赤黒い半球に侵蝕された場所からは容赦なく瘴気が漏れ出しており、寺院の聖性すら脅かされる有様だった。
「しかし、だね」
青海が赤黒い壁に手を伸ばした。途端に、バチッという音と共に雷光のようなものが奔り、指先が赤く腫れる。
「あたしたちでも入れないじゃないかい、ええ!? どうなってんだい!?」
現身の神たる御霊士さえ跳ね除ける作用を、その邪な結界は持っていた。
邪神の力がみなぎっている何よりの証拠だ。
「いや、何とかなると思うぞ」
それまで無言で結界を見て何事か考え込んでいた花渡が口にした。
「花渡?」
千春の花渡に対する呼び方は「お姉さん」から同格への呼びかけの「花渡」に変わっている。
不思議そうに花渡を見た。
「天海上人様からいただいたこれが、早速役に立つはずだ」
花渡は首に掛けた勾玉を揺すり、すっと結界の赤黒い境の前に立った。
白い手を伸ばし、その表面に触れた。
さあっと、雲が晴れるように、渦巻いていた結界の境から靄が引いた。
うっすらけぶる内部が見える。
「この勾玉には、違う世界を行き来する力があるそうだからな。さて、こうしていても仕方ない、行かないか?」
花渡は仲間たちを振り返った。
と、その顔が曇る。
「どうした?」
結界の境が破れるや否や、仲間たちが咳き込み始めた。
「はな、とっ……! 境をっ……閉じ、よっ……!」
黒耀が苦しい息の下、そう叫んだ。
「!?」
花渡は言われた通りに手をかざし、広がった結界の破れ目を閉じる。
「ああ、冗談ではないぞ。俺たちも打ち消せない凄い瘴気だ。これでは中に入っても何もできまい」
ぜいぜいと、まだ喉を鳴らしながら陣佐がこぼした。
「ふむ、困ったな……しかし何故私だけ平気なのだ?」
「それは、なれが伊耶那美命の化身であるからであろう」
答えたのは黒耀だった。
「この瘴気はまさしく『呼ばれざる者』から発しているのじゃ。この中で唯一、『呼ばれざる者』を完全に封じることのできるなれならばこそ、その瘴気に害されぬ」
あまりに苦しそうな仲間を見かねて、花渡は懐に放り込んでおいた時じく香の木の実を一かけらずつ手渡した。
果汁が喉を流れ下ると、仲間たちの異常が嘘のように治まる。
「ねー、花渡ぉ。何かさぁ、この瘴気を打ち消せる手段ってないの? 花渡なら何とかする手段、あるんじゃないの?」
まじまじと、千春が大きな目で花渡を見た。
すがるような目だ。
花渡はしばし考え、ふと、手を打ち振った。
黄色の、可愛らしい丸っこい菊が、その中に現れる。
花渡はそれを千春の髪に挿してやった。
「常世の花だ。身に着けていれば、『呼ばれざる者』の瘴気から護ってくれよう」
青海には海の色をしたハマナスの花、黒耀には黒い蓮、陣佐には赤い桜の枝を手渡した。
青海は髪に巻きつけたが、男衆二人は懐に仕舞い込む。
「あの、溜池で生やしたのと同じ花だな。この手があったか」
「全く、この子を仲間にできなかったらどうなってたのかね。かなりぞっとするよ」
陣佐が感嘆し、青海がぼやく。
一行は、再び結界の向こうに足を踏み入れた。