漆の壱 溜池のモノ

 神田明神のご神体を元の場所に戻すと、その近辺から一斉にモノの気配が消えた。

 

 尚武の神将門公の神威により、モノは存在を消滅させられたのだ。

 しかし、江戸全域にという訳にはいかない。

 江戸を覆う結界そのものが積極的に汚されている以上、それを払拭しない限りは将門公の力をもってしても江戸全域を浄化することはできないのだ。

 

「厄介だな」

 

 涙を浮かべて礼を言う翠に、くれぐれも騒動が収まるまで外へ出ないことを改めて約束させた後、花渡と千春は神田明神の境内から歩み出た。

 

「江戸に張られていた結界を元に戻すにしても、これ以上何をどうすればいい?」

 

 汚されていた鬼門は、取り敢えず浄化した。

 だがまだモノの気配が江戸から消えぬということは、本星はまだ別にいるということだ。

 誰かが江戸市中で、地上に地獄を溢れ出させる術を使っている、そのこと自体にはほとんど触れられていない。

 

「うん、あのさ、疲れてるかもなとこ悪いけどさ、溜池に付き合ってくれる?」

 

 千春の申し出に、花渡は首を傾げた。

 

「溜池? 溜池がどうした?」

 

「江戸を浄化し続ける術を張り巡らせておくには、水が大事なんだけどね……その水が」

 

 千春が言いかけた時。

 

「水が穢れれば江戸が穢れる。その穢れをすすがねばならぬ」

 

 二人の足元に落ちる影から、真っ黒な何かがぬうっと浮かび上がってきた。

 

「!!」

 

「待ってお姉さん! モノじゃない!!」

 

 思わず神刀を構える花渡を、千春が制止する。

 その間にその黒い影は青白い黒衣の若者の姿をとっていた。

 

「ちょっと黒耀! 初対面の人の前にそういう風に出てくんじゃないっ! ぶった斬られたらどうすんの!?」

 

 食ってかかる千春とすうっと亡霊よろしく立ち上がる黒衣の者を、花渡は呆気に取られながら眺めた。

 

「火急ゆえ、礼儀はご容赦願いたい。御前《ごぜん》が佐々木花渡殿にあらせられるか」

 

 古風な言葉遣いの若者に、花渡はその通りと応じた。

 

「我は黒耀と申す真言の聖なり。この千春の仲間とだけ、今は申し上げておく。御前のお力をお借りいたしたく参上つかまつった」

 

 そう言えば最初に会った時、千春は同輩がいるようなことを言っていたような気がする。

 

「今、千春に溜池がどうのと言われたばかりだが……溜池にモノでも出たのか?」

 

「然《しか》り」

 

 花渡の疑問を、黒耀はあっさり肯定した。

 

「溜池にモノが侵入し、江戸とお城の護りの一角をなす水を汚していやる。我らと共に溜池に赴き、モノを退治する手助けをしていただきたい」

 

 花渡はふうっとため息をついた。

 

「それは構わぬが、せめてそちらの事情をもう少し聞かせてはもらえぬか。幕府のお役目らしいのは分かったが、もう少し有体な話をしていただけぬと、こちらとしても諾《だく》とも否《いな》とも応じかねる」

 

 千春よりは年嵩《としかさ》に見える黒耀に、花渡はわずかの期待を込めて要求した。

 

「それやこれやは、後ほどお伝え申し上げる。今はただ我らにお力添え願いたい」

 

 やはり訳も分からぬまま協力せざるを得ないらしい。

 気分は良くないが、あちらの事情を探ることにもなるだろう。

 花渡は頷いた。

 

 黒耀がその亡霊じみた手で花渡と千春を手招きする。

 

「ご無礼申し上げる。しばし辛抱なされよ」

 

 花渡の左手首を黒耀が取り、反対の手で千春の手首を取った。

 次の瞬間、花渡の足元が水に変じたように沈み、視界が暗転した。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「ふう……黒耀の奴はまだなのかい」

 

 南戸青海《みなみどあおみ》が、手にした扇をゆったり動かしながらこぼした。

 

 いつもなら端正に整えられている黒髪が半ばほつれ、白い頬に乱れかかっている。

 歳の頃は三十ばかりの年増、熟れた、匂い立つ色香はどんな相手も幻惑するだろう。

 奇妙なのは、女の色香を示すなら赤と決まっているのに、青海の化粧にも衣装にも赤みが見当たらぬことだ。

 眉も口紅も、赤ではなく青いぬるりとした彩りが施され、身に着けている小袖は青海波に跳ね回る華麗な魚を銀糸で刺繍したもの。

 それが逆に壮絶なまでの妖艶さを、女に与えている。

 

 青一色の女であった。

 

「仕方あるまい。向こうでも、やることはあるだろうしな」

 

 青い女にそう応じたのは、ごうごうと炎の巻く剣を近くの地面に突き立てた、大柄な若い男だった。

 

 女が青ならその男は赤だ。

 羽織袴に染め抜かれたのは、狂おしいまでに渦巻く赤々とした炎。

 癖の強い総髪も、何となく炎じみている。

 

「あのバケモノ。いつの間にか水伝いにどっかに逃げて行っちまわないだろうねえ?」

 

 はああと青海が溜息をつく。

 その視線の先で、何かがばちゃりと動いた。

 

 江戸で一番大きな池の、北に面する高台の下には、本来なら傾きかけた日の光を跳ね返してきらきら輝く水面があるはずだった。

 しかし、目を落として見えるのは、まるで油を広げたようにどろりと濁った色彩を見せる、水面ではない「何か」だった。

 

 江戸の水瓶の一つである「溜池」は、今やその用をなしていない。

 その主な原因は。

 

「……面白くないねえ、モノに御霊士であるあたしらの目の前で、こうも堂々とされるのは」

 

 青海の見詰める溜池の中で、巨大な影がまた水を跳ね飛ばした。

 

 一見すれば、途轍もなく大きな鰻か海蛇の類に似ていなくもない。

 だが、人の顔程も大きな、やけに色鮮やかな鱗のせいで、何となくある種の鯉を思わせる。

 どぎつい色彩の組み合わせのせいで美しさとは程遠いが。

 全身を池の水面を覆ったものと共通した、ぬるぬるとした油のようなもので覆われているせいで、けばけばしい印象はますます強くなる。

 

 溜池の周囲に目を向ければ、火縄銃で武装した侍たちのの姿が見える。

 この溜池の管理を任されている役職の旗本、及びその指揮下の足軽たちだ。

 

 空気中には、まだ硝煙の煙が漂っている。

 先程の一斉射撃の名残だ。

 しかし、目標になったはずの、溜池を泳ぎ回るモノには弱った様子はまるで見られない。

 

「全く、水に浸かっていさえすれば、どんな傷でも瞬時に治しちまうモノだって? こんなの、どこから湧いて出たんだい」

 

 ぶつぶつと軽口めいた不平を洩らす青海だが、その目に悲痛の影がよぎる。

 一斉射撃の反撃として、モノは口から凄まじい勢いの濁流――果たしてそれが水と呼ばれるものかは別として――を侍たちに浴びせた。

 瞬時に三人の命が奪われ、巻き込まれた他数人も大怪我をした。

 溜池を護る侍たちの数は三分の二程に減った。

 

 やむを得ず、青海たちは御霊士としての権威を振りかざして侍たちを指揮する旗本を説得し、攻撃を止めさせ池の際から後退させた。

 並みの人間の武器は全く通じないのだから、控えてもらうしかない。

 

「……俺の炎には比較的弱いようだが、すぐに水に潜るしな。次に上がってきた時には綺麗に治っているのでは、やる気も失せる」

 

 うんざりしたように、陣佐がこぼす。

 いつもの赤い羽織も、総髪も湿り気を帯びている。

 

 自分が弱い攻撃方法を陣佐が使うと理解するや否や、モノは陣佐だけに攻撃を集中させ、沈めようとしたのだ。

 モノの瘴気で汚れた水で全身ずぶ濡れとなり、鉄の塊のような水に体力も削られて、やむなく陣佐も後退し、高台に避難した。

 

 武家に生まれ、仲間内でも一、二の武勇を自負する陣佐には屈辱的だったが、浴びた水は瘴気に侵蝕されて異界の毒となり果て、触れているだけでじわじわと体力を削った。

 剣の炎で乾かし、自らの内側を駆け巡る神の火の霊威で押し返してはいるが、連続して浴びては倒れるしかない。

 

「……千春がいてくれたらねえ。言霊で動きを止めて、そこをあんたの炎で焼けば、あっという間にモノの丸焼きが出来上がるんだろうにさ」

 

 陣佐は何も言わない。反発したのではなく、全く同じことを考えていたのだ。

 

 だが同時に、もしや水から完全に引き上げられないのでは、モノを仕留められないのではないかという不安も浮かぶ。

 千春の言霊で、傷を瞬時に治す力も封じられるだろうか。

 

「もうすぐ黒耀が連れて帰って来るだろう。上手く行けば、もう一人の戦力と一緒にな」

 

「佐々木小次郎の忘れ形見だっていう子かい。本当だと思うかい、自分一人の力でもって宿神《しゅくしん》を宿したなんてさ……」

 

 青海は疑っているというより興味津々といった様子だ。

 気持ちは分かると、陣佐は内心ひとりごちる。

 何の術法の力も借りず、億分の一の偶然によって女神伊耶那美に選ばれたという娘。

 例えかの天海大僧正の言葉であっても信じ難い。

 

「上人様が嘘を仰る訳もない」

 

「だけど、その子、子供の頃から命を狙われて、女剣客なんて商売をしてるんだろう? 大丈夫かねえ、警戒心が強くてこっちの言うことなんざさっぱり聞いちゃくれないなんてことになりゃしないかねぇ」

 

 陣佐はふむと考え込む。

 それなりに辛い人生を送ってきた自覚のある陣佐だが、話に聞いた佐々木花渡なる女剣客の人生は背筋が寒くなる。

 一体どんな狂人だったら、そこまで執拗に女子供の命を狙えるのか。

 

「もしそうだったら、説得はお前に任せるぞ、青海。女同士の方が素直に話も聞けるものだろう」

 

 何となく気が引ける。

 そこまで壮絶な人生を潜り抜けてきた人間に、結局は食うに困らなかった、そしてそれなりの後ろ盾のあった自分の言葉などどこまで届くか。

 

「何言ってんだい。あんたの宿神は、あの子の宿神の伊耶那美命の子供じゃないか。息子が母親に真っ先に頭を下げないでどうするんだい」

 

 苦い思いと共に歪んだ笑みが洩れる。

 その思いを陣佐は敢えて振り捨てた。

 

「俺がどうあれ、かの御仁はすでに御霊士と同じ存在なのだ。俺たちと同じように生きていくしかあるまいし、本人だってそれが分からない程馬鹿ではあるまいよ」

 

「……日が落ちるね」

 

 不意に、青海は話題を変えた。

 視線の先には最後の赤みを燦爛させる太陽。

 

「……まずいな」

 

 陣佐の注意もそちらに向いた。

 

 まだか。

 

 二人の思いは重なっていた。

 もしこのまま夜になってしまえば、戦況はますますこちらの不利になる。

 ここは江戸の裏鬼門に当たり、澄んだ水を市中に巡らせることによって神仏の聖なる結界を保持強化する役割を担う。

 

 そして、より直接的には江戸の民の水瓶でもある。

 それが汚されたまま時だけが流れれば、モノの跳梁は止まず、水を口にできぬ民が乾く。

 汚水が発する瘴気で疫病まで広がるだろう。

 そして、本来の聖なる術を巡らせる水の加護を失った江戸城にも、モノが押し寄せる。

 

『まだか、黒耀?』

 

 陣佐が内心呻いたその時。

 

「……ちょいと陣佐。どうもおかしいよ」

 

 青海が露骨に怪訝な声を出した。

 

「おかしい? 何がだ」

 

「水がさ、あたしらが何もしてないのに、澄んできてる気がするんだよ」

 

 青海は扇をかざして水面を見渡した。

 

「見てごらん。モノが苦しんでる。水が澄んできてるんだよ」

 

 陣佐ははっとした。

 確かに巨大なモノがばしゃばしゃと苦しげに身をのたうたせている。

 

「どういうことだ? 青海、何かしたのか?」

 

 青海の領分は水。

 御霊士の中でも結界の要である溜池、そしてそこから繋がる堀の水を任されている。

 

「何もしてないって言ったじゃないか。だからおかしいんだ」

 

「まさか?」

 

 青海が手を下していないとするなら、考えられることは一つ。

 

「千春たちが表鬼門の結界を繕ったのか?」

 

 仲間内でも有用性という点では随一の力を持つ子供姿の御霊士、そして、一時的にその相棒になっているであろう女剣客が、神田明神始め破られた結界を繕ったとすれば、気と水とで繋がっている裏鬼門の溜池が浄化されるのも道理。

 

「左様。どうにかなった。こちらの方のお陰をこうむってな」

 

 不意にぼそぼそした、それでいて妙に耳に残る声が聞こえた。

 

「黒耀! 本当か!?」

 

「……誰なんだい?」

 

 陣佐と青海が同時に叫んだ。