結局、神田明神のご神体は無事だった。
花渡と千春は、敷地内に描かれていたモノを呼び出す陣図は破壊し、本堂に残されていた何かの邪術に使うらしい道具の類も撤去する作業を黙々とこなした。
硬直したままであった聖英なる僧侶を、念を入れて千春が取り出した縄で縛り上げ、猿轡も噛ませた上で、寛永寺にまでかついで行った。
花渡はあまり出くわしたことがないが、明らかな邪術を使う罪人は、町奉行所ではなく寺社奉行所に任せなければならない。
そのため、その辺の番屋ではなく、寺社奉行所管轄の寺社に預けたのだ。
この恐ろしい騒動の下手人に近い、確実に手下だと思われる邪法師だと説明すると、寛永寺の僧侶たちは一様に驚きを表し、寺社奉行所の者が引き取りに来るまで厳重に押さえておくと約束してくれた。
ぐるぐる巻きにされ、千春の言霊で縛り上げられ、更には名刹の仏者に聖なる術で封じられ、聖英は最早気の毒なくらい無力だった。
子供姿の千春を奇異に思ったらしい僧侶たちに、千春が自ら「御霊士」を名乗ると、一気にその胡乱な目が畏怖の眼差しへと変わったのは、いっそ感動的であった。
◇ ◆ ◇
「千春」
「なあに?」
ようやく神田明神へと向かう道すがら、花渡は千春に問い掛けた。
外敵への対応は花渡が全部引き受け、千春は神田明神の祟り神を慎重に持ち運ぶことに専念する。
「御霊士《みたまし》、と言ったな? それがお前のお役目なのか? 聞いたこともない役職だが」
身分的には浪人の娘でしかない花渡には、江戸城内部での大名旗本の役職を全て把握などできはしない。
しかし、それを差し置いても、全く聞かない役職だ。
母にも聞いたことがない。
寺社奉行のような神仏絡みの役職なら、母はよく知っていたはずなのだが。
「みたま、と言えば、貴人の霊魂とか、神霊のことだろう。お城には、先代と先々代の将軍の御霊を祀る御霊屋付坊主《みたまやづきぼうず》なる役職があると聞いたことがあるが、それと何か関係があるのか?」
どう贔屓目に見ても坊主とは程遠い見た目の千春に、花渡の困惑は募るばかりだ。
自分が十全に理解もできぬまま、無遠慮に事態が進んでいくことにかすかな苛立ちを覚える。
神の力を手に入れても、全てが今すぐ完全に辻褄が合う訳ではないのだ。
「んー……話すと長くなるし、お姉さんはまだ部外者だから、そもそも話してはいけないのもあって……」
「江戸の結界術を守ることには協力させるが、肝心なことは秘密という訳か。ちぐはぐだし、いささか無理があるとは思わんか?」
それは心底から出た言葉だった。
千春は小さな手でご神体を支えながら、難しい顔を見せる。
「調子のいい話だと思うよ。でも、本当に駄目なんだ。ただ、江戸の結界を守る役職だってことだけは教えられる」
ふむ、と花渡は唸った。
そういうのは寺社奉行所のお役目だと思っていたが、千春を見る限りどうもそれとは連動していないように思える。
「寺社奉行関係か?」
「違う。もっと上……だけど、本当にこれ以上ダメ! ダメなんだ、ごめん!!」
千春の困った気配を感じ取り、花渡はその方面では追求しないことにした。
こんな小さな内から宮仕えでも気苦労だろうに、更に余計な負担をかけるのは気が引けた。
さりげなく話題を変える。
「……お前が『止まれ』と叫んだら、本当に相手が固まったな。武蔵には効かなかったが、さっきの坊主は棒のようにカチコチだった」
千春の使う強力な術が気にかかった。
あれが言霊《ことだま》というものだろうか。
巫女だった母も全く使わなかった訳ではない。
だが、千春の使うものは威力が違った。
口に出した言葉そのまま、そっくり相手がその通りになるのだから。
千春がまるで術師に見えないのが、また奇妙さに拍車をかける。
「……お姉さんさ、体に神様宿したんだよね」
花渡の仄めかしに応じぬまま、千春は話を飛躍させる。
「……?」
もしや。
「詳しくは言えないんだけど、あたしも似たようなもん。だから、こんな子供の見た目でもお役目が務まるの」
なるほどと、花渡は納得する。
が、同時に新たな疑問も生まれた。
自分に起こったようなことは、そうそうあることではあるまい。
千春にも似たようなことが起こった、そんな偶然があるのだろうか?
「これまた詳しく言えなくて申し訳ないけど、神様を体に宿す人間は、ある人にかかれば作ろうと思って作れるもんなの。でも……」
にわかに曇った千春の表情に、花渡は怪訝さを覚えた。
「あの武蔵ってやつも、似たようなモンみたいだね。宿したのが神様とは程遠いモノなだけで」
どういうことだろう。
「お姉さんも指摘してたじゃない。あの歳で衰えてないのはおかしいし、第一あいつの体、人間じゃなくてモノみたいになってたでしょ」
千春がきゅっと口を結ぶ。
「あるんだよ。人間をモノに変える方法。人間がその方法をとれば、モノと同じ……歳をとることもなくなるし、普通の人間と違ったあれやこれやの力を身につけることもできる。だけど、それは……」
「邪法だな。それ以外の何物でもない……しかし、聞いたこともない邪法だが」
巫女の娘として生まれた花渡にとっても、まるで未知の邪法。
そんなにも極端な邪法があれば、母の百合乃が一度くらい口に上らせていても良かったような気もするが。
「……千春?」
急に黙りこくった千春に、花渡は怪訝な目を向けた。
「ごめん。これ以上は駄目なんだ。これは本当に危ないの。お仕置きされるとかじゃなくて、この呪法そのものが、本来触れてはいけないものなんだよ」
今までとは違う、まるで余裕のない千春の怯えように、花渡は自分まで背筋が寒くなる気分を味わった。
「一つだけ教えてくれ。その呪法を行えるのは誰だ? 見当がついているのか?」
千春はぶんぶんと首を横に振った。
「分かんない。主なら見当が付くと思うけど。ただ、この騒動を起こしている奴がそうかも」
やはりか。
花渡は足元の地面が消え、体が堕ちていくような気分を味わった。
ただのモノくらいで縮こまる花渡ではないが、話はそれより深い、地獄の淵にまで繋がっているようなものだったらしい。
これは畏れざるを得なかった。
自らの魂までが損なわれるやも知れないと、花渡には見当がついた。
「さて……どうしたものか」
思わずというように、花渡は嘆息する。
「全部は無理だけど……お姉さんに話さなくちゃならないことがあるんだ。それと、力を貸してもらいたいことも。しばらく付き合って」
漠然とした申し出に、花渡はうなずくしかなかった。